不快な共感

不快な共感。

「おお、だよね!」と思った記事。めちゃめちゃ面白かった。

テロ・紛争解決の専門家である永井陽右さんと以前ハマった本『居るのはつらいよ』の著者、東畑開人さんの対談。

ここで東畑さんは、こんなことを話している。

東畑 裏切られると、僕らはみじめな気持ちになる。こっちはこんなに頑張っているのに何でだよ!って。だけど、実はその気持ちこそ、ギャングたちがいつも感じているもので、それが永井さんに投げ込まれているのではないかと、現代の臨床心理学は考えます。

つまり、裏切ることを通じて、ギャングたちは日々自分が感じているみじめな気持ちを、永井さんに味わわせているということです。これを「不快な共感」と呼んでもいいかもしれません。自分が感じている不快さに、実は相手の心が宿っているということです。似たような例はよくあります。

例えば、職場の上司から「お前は馬鹿だ」と言われたら、僕らは「俺は馬鹿なんだ」と思ってつらくなりますが、それはもしかしたら上司自身が日々、自分のことを馬鹿だと思っている気持ちをぶつけられているのかもしれない。

いま、心理学ってそんなことになってるんだ!と驚いた。

相手と接したときの不快感の中に、相手の心が宿っている。
これ、生活実感としてすごくよくわかる。

僕らは不快感を通して、たえずSOSを出しているし、それを受け取ってもらうことでわかりあえる存在のように思えているから。

東畑 不快を感じるということは、相手と接触しているから起こることです。遠巻きにして、かかわりを持たなければ、不快を感じることもありません。
東畑 誰しも不快を避ける権利があります。だけど、不快を避けるだけになってしまうと、人は孤独になってしまう。他者とは自分と異なる存在なので、必ず不快なところがあるものです。だから、不快と向き合わずに、他者と深い関係を築くのは難しい。

不快感を共にすることが、深い関係につながっていく。
逆に不快感のない「よい関係」だけだと、関係は深まっていかない。

実際、僕の人間関係はいま、そんなふうになっている。

以前、こんな記事を書いたけれど、

「仕事」として接客したり、されたりすることばかりに触れていると、なんだか毒がたまってくることも、この「不快の共感」に関わっているような気がした。

腫れ物に触るように「お客様扱い」されるばかりだと、人は孤独になってしまうのかな。

東畑 カウンセラーは別に仏ではないので、攻撃されれば、当然苦しい思いをします。怖くなったり、気持ち良くなかったりします。だけど、そういうときこそ、まさにその人らしさに触れていると思うのです。

不快な共感についてじっくり考えることで、相手の抱えている苦しさが見えてくるし、2人でそのことについて話し合うことができるようになってくる。もちろん、それは簡単なことではないけれど。

奥さんとは、しょっちゅうこれをやっているなと思う。もちろん、望んでいたわけではない。でも、しょっちゅうやることになった。

これをやらざるを得なかったし、やれるから特別な関係になったのだと思う。不快に思ったときに相手を切らないこと、切れないこと。僕らにとって「結婚」という観念の縛りは、『キン肉マン』のデスマッチのようにお互いを逃さないためのものとして機能した。

東畑 「共感」とは、お互いに傷つけ合うなかで、それでも相手を理解していくタフな営みだと思います。

まさしくそんなタフな場面を何度も経てきた。

そして、この記事を読みながら、小学校の頃、転校を繰り返したことを思い出した。

転校をすると、それまでの友達がいなくなり、新しい友達ができる。
当時、爆発的な人気を誇ったファミコンのリセットボタンのように人間関係が変わっていく体感が幼い頃に刷り込まれたのだろうか。

その結果、不快な思いをする人や集団からはすぐに離れる人生になった。人付き合いで悩むことはほとんどなかったけれど、転職、転居を繰り返しながら、僕は快適なまま孤立していった。

という経験をしないと他者に触れられないくらい、僕は他者のいない世界に生きていたのだ。

東畑 いまは不快なことから簡単に撤退できる世の中です。ただでさえ狭いSNSの世界で、ブロックやミュートをしてさらに引きこもる。これは不快な共感を拒否する行為です。そうすると、ひとまずその人の世界は平和になるのだけど、実は見えない世界のことはますます理解できなくなって、嫌悪感が強まります。

ですから、気持ち良くない相手と一緒にいること、そして感じている不快さについて考えることで、知らない世界を学ぶことも、ときには必要だと思うのです。

人と接してしまうと不快な思いが交流する。そこから離れたくなる。
だけど、無菌状態の人間関係は、生きている実感が乏しい。

かつて、僕は暗い人や重い話をする人と会うと、その暗さや重さが取り憑いてくるように感じて嫌だった。でも、もしかしたら、その人は暗さや重さを通して、僕に語りかけようとしていたのかもしれないなと思う。その暗さや重さは、僕の内側のなにかと共鳴していたはずだから。

東畑 あらゆる人と深い関係を築く必要はないけれど、付き合いを大切にしたい人とは深い関係があったほうがいい、と僕は思っています。そのとき、不快な思いをして互いに傷つけ合うプロセスを避けては通れません。誰かと一緒にいて不快な思いがするとき、僕らはその人と深く接触していることを忘れないでほしい。「不快な共感」は「深い共感」への入り口です。

深い関係とは、不快な共感の向こうに共にいくことだと僕は思う。

それを経験することができたのは、30代も後半になってからだけれど、そのことによって、人生の見え方がまるで変わってしまった。

いつも不快を感じたいわけではないけれど、この視点は、人間関係を考える上でとても大事だと思う。


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