ありのままが

「私の言うようにすれば、きっといい人生になるよ」という強迫。(『ありのままがあるところ』②)

note の下書き機能で抜き書きをしながら、この本を味わっている。

この読み方は、公園を散歩しながら、落ち葉やどんぐりを拾って歩く感じに近い。

少し読んでは立ち止まり、気になった言葉を拾って書き留めていくので、ページはなかなか進まない。けれど、一つひとつの風景はよく味わうことができて、僕の性分には合っている。

今日、心に留まったのは、このあたりだ。

P.47
 けれども無意識のうちに「私の言うようにすれば、きっといい人生になるよ」という考えを自分が抱いていたのかもしれない。だから「がんばろうよ」と努力を強いることを疑っていなかったわけだ。
P.48
 作業場に行きたがらない利用者をいくら部屋からうまく連れ出したり、作業に取り組ませることができるようになっても、その働きかけは本人の「今そこに向かえない状態」を無視して、間接的に強制になってしまっていたことには変わりない。
 こちらの考えに相手を従わせるのではなく、彼らに私たちが合わせるべきではないか。
P.48
 「がんばればきっといいことがあるよ」と言うときの「いいこと」とは、誰にとってなのか?がんばらせるのは、こちらの満足でしかない。では彼らが満足するものはなにか。少なくともお仕着せの作業にそれを見出せないのであれば、「この人はどういうものなら興味を示すのだろう」と相手に合わせて試行錯誤するほかない。

このあたりを読みながら、最近、人と交わした会話を思い出す。

「つい強迫的になってしまう」というのが、そのとき話したことだ。

生きていくために、お金を稼ぐために、傷つかないために、傷ついていることを隠すために、弱っている自分に鞭打って「頑張る」。

エナジードリンクや強壮剤を飲んで立ち上がり、目を血走らせて情報をさぐり、見えないなにかと戦い続ける。

戦いに勝利した「成功者」は、英雄として讃えられる。その目の血走り方や強壮剤が勇者のマストアイテムとしてもてはやされる。

「24時間、戦えますか」というCMがあったけれど「私の言うようにすれば、きっといい人生になるよ」という考えは、いまや至るところで僕らを教化しようとする。

そしてそれは、無意識に誰かに接するときの態度に現れる。
僕自身「私の言うようにすれば、きっといい人生になるよ」という態度で人に接したことを思い出し、ちょっと恥ずかしくなった。

そういう社会において「今そこに向かえない状態」というのは、無視されがちだ。それを待つ余裕が、時間がない(ことになっている)から。

でも、この本を読んでいると、それってほんとかな、と思う。
だって「しょうぶ学園」には、それがあるように読み取れるから。

ある人が本屋さんに行って「すべての本棚が自分を脅しているようにみえた」と言った。「私の言うようにすれば、きっといい人生になるよ」の連呼はつまり「あなたがあなたのままでいてはならない」という脅迫になる。

一週間前に、僕はこんなことを書いたけれど、

もしかしたら、この本はそれに対する応答なのかもしれないな、と思った。

僕の中にも僕を強迫するなにかが確かにあるので。

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