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その悲しみをかなしむには。

悲しみをかなしむには、それに適した静けさと暗さと遅さがいる。あまりににぎやかで、明るく、速い場所では、僕らはうまく悲しみをかなしむことができないのだ。

再び梅雨の雨模様に戻った名古屋で、そんなことを思った。

生きてりゃ悲しいことだってある。がっかりするときも、しょんぼりするときもある。それらはあって当然なのに、どうしてか僕らはそうした心境からいち早く逃れようとする。悲しみに追いつかれないよう、必死に活動したりして。

ディズニー/ピクサー映画の『インサイド・ヘッド』では「どうしてカナシミなんてものがあるんだろう?」という問いかけがなされる。

最近読んだ

という名著もあったけれど、悲しみには悲しみの役割というか、居場所があるのだと思う。悲しみにきちんとした居場所を与えている人は、なんだか豊かに見える。そして優しい。

人生には悲しみを通じてしか開かない扉がある。悲しむ者は、新しい生の幕開けに立ち会っているのかもしれない。単に、悲しみを忌むものとしてしか見ない者は、それを背負って歩く者に勇者の魂が宿っていることにも気がつくまい。(『悲しみの秘儀』P.9)

たぶん僕らの社会は、にぎやかで、明るく、速いことを好む。
商売や仕事となれば、みんなそんな顔をする。いかにもエネルギッシュというふうに。

けれど、人はもちろんそんな面ばかりで生きているわけではない。
静かで暗くて遅い、じめじめとした時間に培われるものだってあるし、それがその人の人となりを決めているような気がする。

そう思うと、雨が降り続く梅雨は、人生をスローダウンさせるのにいい時期なのかもしれない。

音が多すぎる毎日を、明るすぎる毎日を、早すぎる毎日を、すこしだけスローダウンさせるための時期。

そうすることで取り戻す自分というのがある。
「ああ、いま自分といられているな」という落ち着きは、苔むす日陰にだってあるのだ。

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