『数分間のエールを』を観て本当に思ったこと

 これは映画『数分間のエールを』を観た人、かつそれに対する自分勝手な解釈を許せる人に向けた文章であり、当然ネタバレも含まれるため、お読みになる方は十分ご注意ください。

はじめに

 わたしは公開初日である6月14日に、映画『数分間のエールを』を観た。観て、その日のうちに(厳密には日が変わっていたが、寝る前に)感想をふせったーに綴ったのだが、このとき非常に悩んだ。具体的には、まあ制作側の人々がエゴサをしているというのもあってなのだが、自己解釈と自分語りにまみれた自己満足の文章を書き連ねるのを非常に躊躇った。その理由は奇しくも作中にあって、『数分間のエールを』という作品に対するそれは、『未明』という作品を基に朝屋彼方が最初に作ったMVと、本質的に似ているのである。そして作中でそれが「公開しないでほしい」とされている以上、それを公開しないのが、やはりセオリーではないかと思ったのだ。結果としてわたしは当たり障りのない抽象的な感想を書いてその日は眠りについたのだが、しかしその本当に書きたかったことが、自分の中で処理できないままに残ってしまった。

 そして10日が経った。TwitterのTLには連日感想が流れてきて、それを読んで色々思うところがあったのちに、自分の中に残ったそれを出しても良いのかもしれない、あるいは出すべきなのかもしれないと考えるようになっていった。すなわち、どうやら許されそうなので、その自分勝手な自己満足としての解釈を、ここに晒け出しておこうというわけである。

 まずは先述した「当たり障りのない抽象的な感想」を、ここに載せておく。

 三段落あるうちの一つ目に関して、これは本心だ。良い映画だった。それは間違いない。

 問題はそれ以降だ。二つ目は生きるとか死ぬとか、本当に何を書きたいのかわからない文章だと思う。そこが曖昧であるために、三つ目に関しても伝わらないと思う。

 本当に書きたかったこと、この映画を観て本当に思ったことは、以下のようなことだった。

創作者の死

 最初に書いておくと、作中(というよりはプロモーションなど)で用いられている「モノづくり」という単語を、わたしは「創作」と表現している。まあ基本的には同じものだと思ってくれていい。

 さて、本作品の、ある意味ではW主人公であるところの、朝屋彼方と織重夕。2人の創作の原動力は、誰かの心を動かすため。そんな感じだろうな、と思っていたらその通りの回答がお出しされて、この作品に対して身構えていた心を少し緩めた記憶がある。それはまあ鉄板で間違いのない理由で、しかしわたしはそういう感情を持っているのかと言われれば、よくわからない。少し考えると、間接的に持っている、というのが正しいというか、一番しっくりくるのかもしれない。

 大前提として、わたしはわたしが楽しいので創作をしている。誰のためでもない。わたしの創作に他の誰かは存在し得ない。わたしはわたしのために創作をしている。そうでなければ、例えば体裁を何も考えずに2万字近くも書き殴ったりはしないし、そもそももっと一般受けするような、少なくとも全年齢の題材にしていると思う。一応軽く触れておくとわたしは最近成人向け(自分以外に向けていないのでこの表現が正しいかは定かではないが)の小説を書いている。自分のためのものなので、投稿はしていない。

 言ってしまえば、わたしの創作は自己満足にすぎない。しかし自己満足で終わってしまっては、その作品が救われないというのも、また確かである。親が子を愛するように、わたしはわたしが生み出した作品を愛している。愛しているから、その作品に活躍してほしいというような、そんな感情を持っている。だから、その作品が誰かの心を動かしてくれれば嬉しいし、その作品にはその作品自身のために、誰かの心を動かしてほしいと思っている。

 言い換えれば、わたしが楽しいだけで書いた作品が、結果的に誰かの心を動かしてくれると、その作品が救われるので嬉しい、ということになる。そんな間接的で自分勝手な動機がそこにはあって、つまるところわたしは誰かの心を動かすために創作をしているわけではない、ということになるのだ。

 まあそういうこともあって、わたしは「誰かの心を動かすための創作」というものに対して、あまり良いイメージを持っていない。というか、創作という行為は自分の好きを詰め込む行為であって、そこに自分以外の存在が介入したとき、それは創作というより、そこには仕事的なニュアンスが生まれ始めるのではないかと思う。ちなみにこの辺りの考え方の原点には『映画大好きポンポさん2』のジーン・フィニがいて、そして『美少女作家と目指すミリオンセラアアアアアアアアッ!!』の棗ソウスケがいる。自分のやりたいことを抑え、求められていることをしてしまうと、創作者は死んでしまうのだ。

 この創作者の死、というものを、わたしは映画を観る中で考えないでいることはできなかった。その話をするためには、創作者の生死、その一生についてのわたしの考え、あるいは理想論を書かなくてはならない。

 まず、創作者は創作をしたいというその心だけで生まれる。生まれたばかりのそれは純粋だ。しかしやがてそこに承認欲求が生まれる。言い換えれば、誰かの心を動かしたいという感情が生まれる。この時点ではまだ自分の好きが優先されるし、すなわち生きている。そして段々と、自分の好きよりも誰かのことが優先されていく。その理由は承認欲求であったり、あるいは金銭的なものだったりする。そして最終的に、自分の好きを抑えて誰かに求められた創作をしたとき、創作者は死ぬのではないか、と思う。

 ここで、創作をやめる、ということが、イコール創作者としての死ではない、ということには留意が必要である。それは死ではなく終わりだ。生きたまま終止符を打つのか、死んで終止符を打つのか。そういう違いがそこにはあって、つまり創作をやめても、創作者である自分は生き続けるといったような、そういうことは可能なのではないかと思っている。

 これを踏まえると、『数分間のエールを』では様々な段階にいる創作者が描かれている。

 朝屋彼方の『未明』の最初のMVは、ただ純粋な“好き”でできている。いわば朝屋彼方という創作者の産声でもあり、そしてわたしが理想とする創作はこれなのだ。一方で、織重夕のための『未明』のMVを作った朝屋彼方は、少なくとも創作者としては、だいぶ死に近づいている、と考えるべきなのかもしれない。

 織重夕は、おそらく生き続けようとして、生きたまま終止符を打とうとした創作者だ。教員になって、つまり自分の音楽は自分の音楽のままで、生かしてあげたかったのではないかと思う。しかし教員を辞める決意をしたために、きっとこの先、彼女にとっての音楽は変わっていく。彼女が音楽で生きていくためには、創作者としての死に向かわなくてはならないように思う。

 物語としては、まあハッピーエンド寄りであるようには思うが、しかし一方で創作者一個人としては、とてもハッピーエンドとは思えない。むしろその逆で、ある意味では崩壊に向かっている物語であるとすら思える。2人の出会いは奇跡的で運命的で、しかし2人して死に向かうのだから。いわば創作者の心中。わたしのこの作品の解釈はそれである。

 そしてそれは創作者として生きていくことの難しさにも繋がるのだ。先ほども軽く触れたが、わたしの言う創作者の生死は理想論であって、実際問題、自分の好きなものだけを生み出して、それで食べていくということが非常に難しいということは想像に難くない。それを思い知らされるのがこの映画であって、それゆえに、純粋に創作を楽しんでいるような人にこの映画をおすすめするということは、非常にリスクが高いのである。……というのが、わたしが映画を観た直後にした以下のツイートの真意である。

無責任なエール

 タイトルにもある「数分間のエール」とは、やはりMVを指しているのだと思う。あるいはメタ的に、この映画そのものが68分間のエールであるという考え方もあるだろう。

 エールというものは、まあ平たく言えば応援であり、それは基本的に無責任だとわたしは思う。また自分勝手で、自己満足である。あるいは、そうあるべきだと言えるのかもしれない。

 『未明』の最初のMVについて、わたしはそれを理想だと述べたものの、結果的にああなることは、それこそ朝屋彼方がMVを作っている段階で察してはいた。理想というのは、あくまで創作者としての生き方の理想という話だ。織重夕にとって、そのエールはエールたり得なかった。しかしその一方で、朝屋彼方が送るものとして、それは確かにエールではあったのだ。

 そして、これは言うまでもないことかもしれないが、『未明』の最後のMVが、織重夕にとっての、彼女が受け取るものとしての、エールとなっていた。だから彼女は心を動かされたのだろう。その動かされた先にあるのが創作者としての死であったとしても、動かされてしまったのだ。

 すなわちエールというものは、勝手に送るものであると同時に、勝手に受け取るものなのだ。そして送り手がエールと思っているものは受け取り手にとってエールではなかったり、あるいは送り手がエールだと思っていないものが、受け取り手にとってのエールであったりするものなのである。それは創作物が持つ自由な解釈の余地が生み出す現象であって、創作物の本質は、もしかしたらそこにあるのかもしれない。

 この作品を含めた、世の中にある全ての作品が、数多の創作者が送り出したエールだとするならば。わたしはこれからもそれを解釈することで勝手に受け取って、自らのエールとしていきたい。

 そして、いつかわたしの作品が誰かにとってのエールになることを期待して、わたしはこれからも、創作をするのだろう。そんなことを思った。

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