理想のアウトソーシング

1.妄想が妄想でなくなる

鬼滅の刃ブームで最近の小学生は鬼滅ごっこに興じていると聞いた。
これが戦時中に行われた戦争ごっことアナロジーを持っているとかなんとかという批判も鬼滅の刃未読の人間からはどうでもよい。
それよりも、今の子どもたちにとって問題なのは、ありふれた性的コンテンツに、知識もないままアクセスできてしまうことの方が問題である。


私が小学生の頃、そのような話に触れる機会がないので、妄想をしていた。
それが、中学生ともなると、週間少年ジャンプや道端に落ちているエロ雑誌などを手に入れることで、妄想は具現化されることとなった。
本来、自分の嗜好に合うシチュエーションや絵柄は、唯一無二であるにも関わらず、それがアウトソーシングされてしまったのである。

これを表現している一コマが、『鬱ごはん』に掲載されている。主人公の鬱野が映画を見て、その感想をSNSで調べるシーンである。

映画の感想を言語化するのが面倒だから
SNSで他人の感想漁って自分と感性が近い意見を探すか

『鬱ごはん』施川ユウキ

性的なことに限らず、我々は自分が楽しんでいると考えている娯楽の大部分をアウトソーシングしている。
これによって、妄想が、個人的なものではなく、他者によって具現化された世界の追想に、堕落してしまったのである。
私はこの堕落を経験したが、今の子どもたちはこの堕落を経験することは出来ない。
なぜなら、彼らは物心ついたときから堕落した状態にさせられているからである。

2.アウトソーシングのメリット、デメリット

これにはメリットもあれば、デメリットもある。

まずメリットとしては、時間を掛けずにクオリティの高いものが手に入ることがある。
これは大きなメリットであり、SNSによって、表現者と直接相談し、より自分の理想に近いものが手に入る現代においては、このメリットはとても心強い。

しかし、この幻想は我々の理想を、完全に描き出すことはできていない。
こうした他者の追想に満足してしまうと、自己の本当の理想が隠されてしまう。
小学生の時に描いていたあの理想は、他者の思考に埋もれてしまうのである。

3.性欲のアウトソーシング

また、これは性欲にも当てはまるのかもしれない。

私は、他者の性欲が発露する描写を好む傾向がある。
男性、女性に限らず、被描写者が、性欲によって理性も崩壊させ、性行為に耽る描写である。
私は、この被描写者に、自己の性欲を託すことで、自らの性的興奮を奮起させるという内在的行為を、アウトソーシングしているのである。
これは、自らの性的興奮を、自発的行為ではなく、他者の追随として発露する行為であり、性欲という3大欲求すらも他者に依存しているのだ。
これを末期と言わずして何と呼ぶのか。

4.末期になる前に

我々は、他者に依存して生きている。
これを否定するつもりは毛頭ない。
しかし、自らのすべてを他者に託すことは、まったく適切ではないのである。
理想は自分で作るものであり、性欲は自分で生起するものだ。
このような当たり前の言説すらも意味を持つようになってはいけない。

生殺与奪の権を他者に託してはいけないのと同じことである。



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