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窓・切断・髪

 彼女は、取り立てて目立つ人間ではなかった。どちらかと言えば、当たり障りなく、波風を立てないように注意深く生きていたのではないだろうか。よく覚えているのは、皆の談笑の輪の隅で彼女が浮かべていた、肯定とも否定とも取れないあの笑み。ストレートの黒髪に、縁が薄い眼鏡。睫毛は長かっただろうか。白い肌からはおよそ、快活な雰囲気は感じられなかった。多分、運動は苦手だろう。そう勝手に思っていた。
 僕は彼女のことをよく知らない。知ろうともしてこなかった。でも何となく、自分に似ているなと思っていた。ただ、視界の端でぼんやりと追いかけていた。もしかしたら、淡い恋だったのかも知れない。
 だが、こんなことを今更思ったところで意味はない。
 彼女は昨夜、死んだのだから。

 お焼香は儀式的だ。抹香の匂いは浄土への道しるべなのだとか。死ねば浄土に行けるのか、死ななければ浄土に行けないのか。今自分は家族葬が増えているようだが成る程、多くの人に道しるべを焚く上げてもらえば、迷うことも少ないのかも知れない。僕は順番待ちの列で、そんなことを思っていた。
 中央に豪奢な祭壇があり、そこに木棺が置かれている。桐製だろうか。清潔な感じがする。前の人に倣い、棺の前に進む。
 窓だ。窓から彼女が覗いている。目を閉じて。
 綺麗に整えられ、化粧を施された顔。いつもより明るく見えるのは、照明のせいか、化粧のせいか。いずれにせよ僕は、この時初めて、彼女の顔をまじまじと見た。
 君は何を思っていただろう。いつも何を考えていただろう。よく見ると目の縁から、唇の奥から、鼻の穴から、死が香ってくるようだった。だがそれでも、僕は彼女を美しいと思った。亡くなって尚、いや、亡くなったからこそ、僕は彼女を見つけて、見つめることができている。この窓は彼岸と此岸を分けるものだけれど、ここに至ってはじめて、僕と彼女は出会ったように思えた。

「突然だったらしいよ」
「脳梗塞だっけ」
「まだ若いのに」
「いい人だったよ」
「そう言えば私、あの人に……」
遠巻きに聞こえてくる会話は大体そんなところだ。死因、年齢、明日は我が身、死ねば仏。故人にまつわる良い話題を探し、思い出話に花を咲かせる。だがそれも長くは続かない。彼女は誰とも深く付き合っていなかったのだから。義理で集まり、表面的な悲しみを纏った上司・同僚。参列者に頭を下げ続ける親族。そう言えば親戚関係はあまり多くないのか、会社関係を除くと両親しかいないようだ。友人関係はどうだったのだろう。早くも帰り支度を始めた同僚たちから、この後の予定を聞き合う声がした。
 途端に、とてつもない寂しさを覚えた。
 最後なのだ。あの窓が閉じられ程なく、彼女は荼毘に付される。彼女の肉体は僅かな骨を残して完全に消滅してしまう。彼女が生きて存在していた圧倒的な事実がなくなる、最後の瞬間なのだ。それなのに、誰が彼女のことを本気で悼んでいるだろう。勿論、両親は悲しみの最中にいるのだろう。もしかしたら娘の突然の死を未だ受け入れられず、上の空で葬儀をこなしているのかも知れない。想像を絶する悲しみなのかも知れない。
 だが。だがそれでいいのか。彼女の肉体を消滅させてしまって良いのか。長い時間をかけて緩やかに思い出にして、いつか笑って話せるようになる日まで。僕を含め、知り合いなんてもっと酷い。時たま思い出して、あぁそんな人いたね、病気は怖いね、で終わりだ。人の死はそんなもので良いのか。
 誰も彼もが、彼女の生きた軌跡を思い出の中に閉じ込めようとしている。彼女の死を、彼女の肉体の存在を、直に腐り死臭を放ち出すであろう彼女の実体を、燃やし尽くそうとしている。さぁ早く火葬しよう、流れるようにスムーズに葬儀屋さんお願いしますだ。
 忘れたいのだ。見たくないのだ。生と死の生々しさを。その場に参列しているのに。
 死して尚、こんな扱いを受けるのか。
 僕の腑は瞬時に煮えくり返った。
 彼女はここにいる。まだここにある。繋がっている。物理的にこの世にまだ、繋がっているのだ。彼女が生きた痕跡を消すな。気色の悪い死の足音を消すな。腐臭の中に解放されていく過程を尊重しろ。世界のために彼女を燃やしたくない。
 滑稽だと自分でも思う。僕と彼女にそんな深い関係はない。むしろ上司や同僚と同じでしかない。彼女が死んで、初めてよく見て。こんなことを思う資格は自分には全くない。分かっている。分かっているのにこれは何だ。この気持ちはなんだ。せり上がる吐き気にも似た、この感情。
「あの、ちょっと、最後にもう一回お別れ言ってきます。お疲れ様です」
呆気に取られた上司たちに背を向ける。
「あいつ、仲良かったっけ?」「さぁ」という会話が遠くで聞こえた。
 両親に会釈をし、再度お焼香を上げ、窓をのぞき込む。
 物を言えなくなった君。幾分血色もよく化粧された君。僕は君に何を言えるのか。何を思って良いのか。肯定とも否定ともとれる曖昧な笑顔は変わらずそのままに、死が滲み出す口の端。
 これは同族嫌悪だろうか。同情だろうか。拗れに拗れた恋慕なのだろうか。
 分からない。全てが本当のようで、全てが嘘のようにも思える。
 棺を壊したいと思った。この肉体を奪いたいと思った。腐りゆく中で共に、命を映し合いたいと思った。だけどそれは出来ないことも知っていた。
 だから僕は、そっと窓に手を忍ばせ、彼女の髪を、奪うことにした。
 彼女の肉体の、死んでしまった肉体の一部を、僕は奪った。
 彼女を取り巻く全てから、彼女の存在を守るために。

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