「『諦観』の入った『寛容』」は「優しい」とは違う。実はいろんなものを見逃してしまっているかもしれないよね
「怒り」について
皆さんは日常生活で大きな「怒り」や「憎悪」など負の感情を感じることはどれくらいありますか?
例えば「遅刻」や「事務連絡がない/遅い」「大事な話し合いに全く参加しない」というような人の信頼をある種下げるような行為やそれをする人。これに対して私は全く怒りの感情が湧かない方だと思っています。何度も繰りかえしされたとしても、です。
まずそのようなこと(「そのようなこと」は上記の行動に限らず多くあるかと思いますが、今回は分かりやすく「プライベートで遊ぶための集合に遅刻された場合」に絞って考えてみます、時々他の事例も出します)が一回目起きたパターン。これに関しては本当に怒りなどは湧かないと思います。その理由としては、遅刻とか一度のミスとかだったら普通に自分もしてしまう時があるからです。なので相手に対しても心の底から「仕方ないよね~」「次から気を付けようね~」となるだけです。そして完全に自分のラインではありますが、なんなら数分の遅刻だったら連絡さえあれば全然支障もないし直してねすら思わないです。
次に、一度に数時間というとんでもない時間遅刻するパターン。これは完全に自分に「実害」があります。なのでその場ではイラついたり、怒ったり、「なんやこいつ」と思ったりはするかもしれません。ただ、そのことを明日も明後日も引きずることはありません。そしてその人自体やその人全体を嫌いになることはまずないです。「この人のここ苦手だな〜」で割り切れるからです。遅刻を何度も繰り返す場合も同様です。「この人はこういう人なんだな」と割り切れてしまうので「またか~」という感じで悲しくは思うかも知れませんが怒りにはならないと思います。
もちろん、極端な話大事な人を故意に傷つけられた(縁起でもないけど究極大事な人を殺された)とか極端なものだったら当然めっちゃ怒るし許せない。それは当たり前です。今回に関しては遅刻のような「人によってラインが違う・場合によってはめっちゃ怒る人もいるだろうな」案件に関して、自分は人よりも「怒りが湧かないな」という話です。
余談ですが、上述した価値観に加え基本的に衝突が面倒だなと思うこともあって喧嘩を一度もしたことがありません。喧嘩をしたいほどの意志を持ったことがないし、根本には喧嘩をしたくないという意志があるような自覚です。
黒柳徹子さんもしくじり先生で「怒るのはエネルギーの無駄」という思いに至ったといっていました。「今まで生きてきて、怒っても何もいいことがないということに気が付いた。皆さんもケンカしたりするが、これは本当にやめたほうがいい。それ以外のことにエネルギーを使うようにして」と教訓を明かしていました。あれだけの大物が言うような教訓を最初から実践できたことが嬉しかったです笑
話を戻しますが「遅刻に対して怒りがわかない、それでその人全体を嫌いになることはない」というのは「怒り」とか「憎悪」とかそういう負の感情への省エネができてるという意味で「めっちゃ長所じゃん!!」と基本的には捉えています。余談も関係してますが、絶対その方が自分は疲れないし表面上は「優しい」で通るからです。
ここまで聞いてみて、あるいは何度遅刻しても怒らないという態度を取られた場面を想像したら、もしかしたら「寛容」とか「優しい」とかっていう感想になるかもしれません。字面だけを考えるとそうなるのもわかります。
でも私はこの「寛容」「優しい」という言葉は少し違うと思っています。どういうことか。それはタイトルにもあるようにこれらの価値観は「諦観の入った寛容」だと思っているからです。
何度も遅刻をすることに対して「この人はこう言う人なんだな」と思うことはよく言えば受容していると言えます。ですが裏を返せば「相手のそう言う部分は直せないものである」という「諦観」が入っているとも思います。そこに、何度も言ったら変わるかも知れないという期待は少ないです。
なのでその人に対して取る行動も、改めて考えてみると独りよがりになっているなと思います。相手のそうした負の特徴も見越したスタンスやマインドでいるからです。だから例えば、遅刻常連の人と遊ぶなら遅れても大丈夫なスケジュールを組んだり。4人でやるmtgやそれを踏まえてやる作業を一人だけ欠席してやらない、とかだったら3人でその作業を終わらせられるように最初から話したり。わざわざ欠席してる人を促してわざわざ仕事振るのがめんどいし、一人でやった方が早いなとか思ってじゃあ一人で作業進めちゃおうかとなったり。そんな感じです。
これらの相手の行動が直るのはもちろん喜ばしいことです。ただ、本気で直して欲しいというよりも、直ったらラッキーぐらいの感覚だなと思います。もちろんそうじゃない例外もあるとは思いますが。
「『好き』の反対は『嫌い』ではなく『無関心』」という言葉があります。この言葉、めっちゃ感心してしまいます。要は「嫌い」という感情もその人に対してある種向き合ったゆえの結果であり、向き合うことすらしてない「無関心」が一番「好き」に対する反対なのではないかということですよね。考えた人スゲ〜とか思います。話を戻しますが、その「無関心」と今までに述べた「諦観の入った寛容」には、両者に通ずるような冷たさがあるなと感じるのです。なぜなら相手へ期待をせず最初から受容している、ある種向き合ってないとも言えるからです。
これは「価値観」だから変えるのが良いとか変えない方が良いとかそう言う話ともちょっと違います。多様性です。ただ、隣の芝生は青いじゃないけれど、例えば相手に対して「怒り」などの感情を多く抱けることに凄いなと率直に感じます。なんか字面にすると「なんやこいつ」「なめんなキモ」とかなりそうだけど本当にそう言うふうに思うのです。同じ事象に対して自分は怒ってないのに他の友達が許せないと怒ってる場面に遭遇した時「自分ってそこまで人に期待できてない冷たい人間なんだな」と一歩俯瞰して(踏み込んで?)感じてしまうからです。
さっき、表面上は「優しい」で通ると書いたのもここらへんに繋がります。「実は一番冷たい人間なのでは!?」と自分で自分を感じるからです。究極「だからなんだよ」ではあるし、ぶっちゃけ自分の価値観の方が円滑に進むことの方が多いなとも感じるので、本当に良い悪いの話ではないのではないけれど。繰り返しになるけどやはり隣の芝生は青いものなのです。
「諦観の入った寛容(=人に期待しない)」はいろんなことを見逃してるかも、と感じた経験
これらを踏まえ、上記のような価値観を持つ(それに対して隣の芝生は青いがなくはないけどなんなら長所としても捉えてる)自分が「諦観の入った寛容(=人に期待しない)」はいろんなことを見逃してるかも、と感じた経験がありました。
今回、サークルの関係でこれから数ヶ月をかけて全国の大学生が集まる巨大なイベントを開催することになりました。私はその中のコンテンツ1つを数人の班で考えることになりました。そのコンテンツとは、イベントで初めましてで相対してイベントを進めなくてはいけないので、参加者の仲を深めるためのアイスブレイクです。
本当にちなみにではありますが、過去記事で書いたこれと同じ案件です↓
進捗状況が息詰まることもありつつも、基本的に順調に進んでいました。ですが、4人のうち一人だけ全く参加してくれない人(以下:Tくん)がいました。
T君は毎週・時期によっては毎日あるMTGにも1回も参加していませんでした。「バイトがめっちゃ忙しかった」らしいのですが、正直MTGだけでは間に合わないため普通にグループでLINEのテキストで話を進めたり、他のメンバーの子(以下:🌸さん、🌊くん)が「●日にMTGあるから来てね」みたいなリマインドをしたりしていました。でも3週間くらいずっと未読だったのでさすがにそれは無理があるしバイトの忙しさは関係ないよね、という感じです。
そして、この運営準備チームの中でも初めましての人がいたりいなかったりする感じでした。Tくんも一人も知り合いがいなかったのでしょう。ただ、それは自分もそうでした。そうだったけど頑張って勇気出して参加してる(その結果メンバーとも良き友達になれたと思っている)ので自分から言わせればそれも気持ちはわかるけど来なくていい理由にはなりません。
というかそもそもこれって自分から立候補してやってるものでやらされてるものではないので、バイトで忙しいとか最初友達がいないという状況も気持ちとしてもちろん理解はできるけどやっぱり運営に全く参加しない姿勢はどうかなとは思います。
ただ、そんなことを思いつつも私はそんなTくんに対してまったく「怒り」は沸いていませんでした。先ほどまでさんざん述べてきた「諦観の入った寛容」です。なのでTくんに対しても「全く運営準備には参加しない、できない人なんだな」と受け止めてほぼ🌸さんや🌊くんと作業を進めていました。もちろん来てくれたら嬉しいのでそういう雰囲気づくりとか寄り添いは自分の中でしていました。「いつでも来て〜」「ウェルカムだよ」とかも言ってました(これは本心)。ただし、来て欲しいの気持ち程度が軽くて「来てくれたらラッキー」ぐらいに捉えてました。そして、それがから回ろうともそれはそれで良くて、普通に今やる気のあるメンバーだけで進めた方が早く進むなあと思ってやっていました。それで増える自分の負担とかはあまり考えていなかったと思います。
でももう一人のメンバーの🌸さんは違ってました。Tくんが来てないことに本気でイラついてたし「なんでこないの!?」みたいな熱量を持ってました。その結果、実際に🌸さんは来てないTくんに対して仕事を振りました。自分とも相談して振る仕事とかはきめたけど🌸さんが主体的に決めてくれたし、Tくんをメンションして「この作業してくれない??」みたいな感じで発言もしてくれました。
その気持ちに理解を示しつつも、わざわざ実際に振る仕事を考えてしかもそれを発言するということを考えるとやはり「怒り」より「面倒」の方が自分一人だと勝ってしまいます。なので、先ほど述べた「相手に対して「怒り」などの感情を多く抱けることに凄いと思う」が発動してしまいました。これを🌸さんに伝えてみると、 本人は「マジでイラついてるからその怒りを正当にぶつけないと気が済まないだけだよ」とは言っていました。
事務連絡を通してメンションすることで、Tくんに言及できるし圧もかけれるし、なんとなく怒りを正当にぶつける=メンションして仕事を振るは何となく理解できました。ですがやはり「相手に対して「怒り」などの感情を多く抱けることに凄いと思う」は常にありました。ただそれと同時に、結局その結果起こす行動が自分よりも本気の、Tくんに来てもらうためのアプローチになってました。
振った仕事は事前に撮った動画の編集でした。結論から言うとTくんは思ったよりも良い動画を仕上げてくれました。🌸さんは来てくれないことに本気でイラついてた、なんでこないの?という気持ちがあったからこそ、行動を起こしました。その他にも例えばアイブレの決まっている内容とかが複雑なのですが、その説明をTくんと個人でコミュニケーションをとってやってくれました。そしてそのコミュニケーションがあったからか、つい先日Tくんは初めてMTGに参加してくれました。
MTGに初めて全員が揃った時、自分は正直嬉しかったです。それに良い動画を仕上げてくれたことにもびっくりしましたし、結果我に返ると自分たちでやるかもしれなかった動画編集やってくれてるやんとなりました。要は自分の負担が減っているということです。
この時にタイトルです。「『諦観』の入った『寛容』」は「優しい」とは違う。実はいろんなものを見逃してしまっているかもしれないよね。と感じたのです。🌸さんが諦観しないでいてくれたことで、Tくんが良い動画を作ってくれたし、MTGにも来てくれたし、自分の負担も減ったということが起きています。
「向き合う」ことについて
完全に別件ですが、私はついこの前岩手で1週間のプログラムに参加しました。その事後学習でいろんな流れがあった結果、リーダー業務を頑張ってくれたあるメンバーの子(Yさん)が「向き合う」について学んだことがあったと話してくれました。彼女は班のリーダー的立ち位置で、やらなきゃいけないこともある中でそしてメンバーの子を引っ張って行かなきゃいけないという状況でした。1週間(その事前準備から)の間にたくさんの苦労があったことを身近で見ていた知っていたこともあって結論から言うとそれが凄く腑に落ちました。そして、それと同じことが今回の件で体験ベースで起きてるじゃんとなりました。
今回で言うと、自分はTくんに対して「向き合えていなかった」のに対して🌸さんはTくんに「向き合えていた」のかなと思っています(🌸さん本人は起こした行動の動機は向き合うとかそんなことではなく怒りをぶつけるという気持ちから始まってはいますが)。
「Tくんが全く運営準備に参加しない」という状況を受け入れたというのは要は「向き合う」でいう「知ったら終わり」の状態とイコールであると思います。ですが、🌸さんは動画の仕事を振ってみたりコミュニケーションを取ってみたりした。ここで相手に対して何ができるか・何を与えられるか・何を伝えられるかを考えて実行するが、図らずもできているということですよね。その結果、自分たちとTくんの情報量、熱量、想いが同じになり、目線があった。MTGにも参加してくれたし動画も作ってくれた。
要は、図らずも「向き合う」ことでより良い結果を生むを体感できてしまったなということなのです。大げさに言うと、Tくんのまだ見ぬ可能性を見ることができた、って感じです。
やっとすべてつながったし言語化できた、、、、めっちゃ長くなったけど今までに述べたことが自分の感じたそういうことです(語彙力)
じゃあこれから全部に対して「向き合うようにしよう!」とか「諦観するのをやめよう!」っていうとちょっと違います。先述しましたがその方が円滑に進むことの方が多いという考えは自分は変わらないからです(頑固かもしれません)。でも少なくとも向き合う、諦観をやめたことでプラスの状況に転じたケースを経験できたのは良いなと思いました。そこは自分にとって気付きだったのでnoteに書いてみました。
最初は旧Twitter(現X)でぽろっと書くつもりがめっちゃ長くなってしまったので全部noteに書きました。6000文字書いてるわエグい
というわけでこんな長い文章をここまで読んでくださった皆様ありがとうございました!これも皆様の感想とか聞いてみたいです笑