見出し画像

大径管工場の建設、1.初めに

 1969年に大学の機械工学科を卒業して大手鉄鋼会社に入社し、川崎市の製鉄所に配属された。鉄鋼業は高炉をはじめとした巨大な生産設備群により、各種鉄鋼製品を生産する、設備産業だ。設備の良し悪しと使い方の工夫により、生産効率と品質が決まる。従って、新設備の建設と各設備の維持管理、改造などを手掛ける設備部門に多くの技術者が従事している。
 
 入社した当初は設備の機械保全部門に配置されて経験を積み、その後、鋼板設備の改造計画と実行を担当していた。ところが、28歳のある日突然シームレスパイプの工場建設プロジェクトの担当に指名された。所内にはパイプの設備部門に従事する経験豊富な先輩がいる中で、何故、全く工場建設経験のない自分が指名されたのか、最初は不思議だったが、後々の情報では、所の設備部門を掌握する幹部が従来のパイプ部門の設備技術者に対する不信感があったようだ。
 
 当時は所謂オイルショックの真っ最中、原油の急激な値上がりにより、世界中で争って油の井戸掘りをしており、それに伴う空前の油井管ブームで、鉄鋼各社利益の大半はシームレス鋼管によるもので、競ってシームレスパイプの製造設備を強化し、生産を拡大していた。
 
 油の井戸掘りは最初にドリルパイプを使って掘削し、次にケーシングパイプで井戸の外郭を固め、無事に油が出ればチュービングパイプで油をくみ上げる。3種類のパイプはいずれも強度と信頼性が必須で、板を丸めて溶接する溶接管では対応できず、丸鋼片を加熱してくりぬき圧延をする継ぎ目のない、いわゆるシームレスパイプを使用する。
 
 なにはともあれサラリーマンとしては指名を断る事など出来ず、何とかしなければならないし、当時は自分の技術力なら出来るはずだとのうぬぼれもあった。勿論経験不足が故の苦労があったが、それに加えて、上司や同僚との関係から過大な業務を背負い込み、最後は心身の極限状態だった。兎も角完成し、30歳になった歳の冬、新設備の操業にこじつけた。完成した大径管工場は私の最初の作品であり、かつ会心作だった。圧延ラインにしては異例の長期間、ほぼ半世紀にわたって稼動し、数年前に休止するまで第一線の主力設備だった。
 
 苦労はしたが、普通の3年間ではとても得られるはずのない経験を積み、技術力、マネージメント力を飛躍的に伸ばすことが出来た。設備技術者としての自信になり、所内でも、特に設備部門では一目置かれるようになった。
 
 以降、順を追って顛末を書いてみる。なお、文中の名前は全て仮名です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?