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子供の感性 息子と糸瓜(へちま)

 北村薫の「詩歌の待ち伏せ」には、
大人になると子供の感性を失う、と書かれている。
私がまだ30代、横浜の家に住んでいた頃・・・

 日当たりのよい庭の南道路沿いには貝塚が並び、
桜、はなみずき、山茶花、柘植、椿、梅等が植えられ
季節の色合いが濃かった。

 初夏のある日、次男(小学生2年?)が、
梅の木の前に二粒の糸瓜の種を埋めると数日後、
芽が出て、細いつるを梅の枝に沿わしながら育ち始めた。
他にもいろいろ草花はあったが、
次男にとっては自分で育てる、自分の糸瓜だった。

 見るからにうきうきと心躍らせながら毎日水をやり、
ジャックの豆の木の如く、糸瓜は順調に延び、
大人の背丈くらいになり、
やがて、つるの先端に小さな実が育ち、
黄色いかわいい花が咲き始めた。

 当時私は、土日の午前はテニス、
午後は庭木の剪定が定番だった。
休日に庭木と会話しながら、
枝の形を整えるのは精神的に落ち着き、
1週間の仕事のもやもや解消には大いに効果がある。

 ところが、ある明るい午後、梅の小枝を切った瞬間、
もののはずみで、糸瓜のつるを一緒に切ってしまった。
あっと、思ったが、時既におそく、
つるは見事に上下に分かれている。
小さな糸瓜の実とかわいい花は、
まだ気がつかないようだが、
どっちにしても、水も栄養も来ないから、
一巻の終わりだ。

 仕方がない、ワシントンの桜とは親子が逆だが、
人間、正直であらねばならないことに変わりはない。
「お~~い、○○○・・・」
と庭の向こうの方にいた次男を呼んで、
ごめんごめんと言いながら、事の顛末を告げた。
次男は、一目で状況を理解し、
黙って少し離れたところに行って、
向こうを向いて、ぐすん・・・と。

 困ったなと思いながら、糸瓜を眺めると、
切れたつるの横に、もう一本つるがあり、こっちは無事だ。
おまけに、そっちにも、小ぶりの実と花の蕾があり、
これから咲くぞといった感じだ。
しめたと思い、「大丈夫だ、まだ、こっちにもあるぞ。」
と言ったら、
「もう、いいよ、」と相手にされなかった。

 大丈夫なわけは無く、あの花はあの花でこの花ではない、
自分の感性が失われていたことに気がつき、
少し寂しくなった事件(?)だった。

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