アンパンマンに見る正義と悪(序章 第1節〜2節)

大学生のころ『アンパンマン』にはまって、国立国会図書館に通いつめて本気で考察した結果、「優秀論文」に選ばれた論文をここに掲載します。

非常に長い(原稿用紙100枚弱)ので、いくつかに分けます。ここでは序章の第1節〜2節を掲載しています。

序章 考察の前に

第1節 はじめに
 正義とは何か? 悪とは何か?
 これは非常に難しい問題である。やなせたかしの言葉を借りると「正義は或る日突然逆転する」(『アンパンマンの遺書』六一頁)からだ。
 だが一方、やなせは同著で「逆転しない正義は献身と愛だ」(六一頁)と書いている。彼は自身の人生経験を通して万人に共通する絶対的な正義とは何なのかをさとっているのだ。
 絶対的な逆転しない正義である「献身」「愛」とは具体的に何なのだろうか?
 ここでは、やなせの作品や書籍から彼の正義、悪に対する考えを考察していく。

第2節 やなせたかしの経歴
 ここでは『アンパンマンの遺書』『私が正義について語るなら』を参考に、アンパンマンが誕生するまでのやなせたかしの経歴を整理していく。アンパンマンが誕生した一番の原因は戦争体験だが、やなせの幼少時代の影響も決して小さくはなく、アンパンマンを考察する際に避けては通れないからだ。なお、戦争体験については「第2章 正義と悪について」の「第1節 やなせたかしの考える正義とは」で改めて詳しく書くことにする。これ以降の章をスムーズに進めるためにやなせの経歴をここで予め述べておくというのもまた、この節の目的である。
 やなせたかしは一九一九年、高知県香美郡香北町在所村で長男として生まれる。兄弟に弟の千尋がいた。母は大地主の次女だったが、母の父である谷内家当主が大変な遊び人であったため没落しかかっていた。父は在所村の柳瀬家の次男だった。父の家は江戸時代から代々庄屋だったが、すでに家財は傾いていた。父は新聞記者でありテニスの選手でもあったが、上海で取材中に亡くなった。柳瀬家は高知市に移動し、やなせたかし、祖母、母の三人で暮らし始めた。弟の千尋は南国市の後免町で開業医をしていた柳瀬家長男の養子として引き取られる。弟は明るくて器量が良く、それに対してやなせは不器量とよく言われていたという。これによりやなせは自分の外見にコンプレックスを持つようになり、暗く人見知りな子供に育ったらしい。このコンプレックスは、後に醜く心優しいフランケンシュタインに共感したり、見た目のさえないヒーローアンパンマンを生みだす要因の一つになったのではないかと私は考える。
父の死後母は自活のため様々な習い事をし、夜は息子と映画や芝居を見るなど懸命に生きていたが、一方で複数の男性とつき合い、時々ヒステリーを起こすなどといった一面もあった。一方やなせは祖母に溺愛されて育ったため、「貧しいくせに世間知らずのお坊ちゃん」になってしまった。小学二年生(高知市立第三小学校に通っていた)の時に母が再婚し、それにともない、すでに弟が養子になっていた開業医の柳瀬家(叔父)に引き取られる。この時母は「あなたは体が悪いから、大きくなるまで病院に預かってもらうのよ」と言ったきり迎えに来なかった。悪く言えば、見捨てられたのである。母の悪口を言う者は多かったが、やなせは今でも母を恨んではいないと言う。やなせは伯父の家で実の息子と同様大事に育てられたが、お金を出してもらうのが申し訳ないので「修学旅行にいきたくない」と言うなどいくらか遠慮がちだったという。転校先の小学校(後免野田尋常小学校)では勉強しなくても首席で優等生だったが、「これじゃ碌な大人になれない」と子供ながらに不安に感じたという。
 中学校(県立城東中学校)に入ってからは数学がほぼ零点しか取れないなど一気に劣等生になった。勉強したくても怠け癖のためできず、またニキビ、インキンタムシ、水虫、皮ふかぶれを併発して、軟膏の臭いをぷんぷんさせながら全身を「ぐるぐるのミイラ巻き」にされ、少しも良いことがなかった「暗黒時代」だったという。またこの時期に漫画や探偵小説に興味を持ち「漫画家や小説家、挿絵画家なら数学もいらないしなれるのではないか」と思うようになる。やなせは数学ができなかったため、申しわけないと思いながらも伯父の病院を継ぐこと拒否した。その後受験したがすべて不合格になり、浪人する。それでも予備校、塾には行かなかった。独学で数学と英語を勉強し、特に数学はまったく理解できなかったため四冊の参考書の問題と答えを丸暗記するという方法を取った。自信はまったくなく、もしまた不合格なら自殺しようと考えていた。だが奇跡的に東京工芸学校図案科に合格した。やなせは当時のことを思いだして「アンパンマンは影もかたちもない。わずかにその予兆を求めれば、ぼくが漫画家になりたいと思ったこと、そして図案科に合格してとりあえず絵の具をぬる職業の方向にむかったということである」と『アンパンマンの遺書』で書いている。
 やなせは「アンパンマンは影も形もない」と書いているが、この「勉強ができない」という経験も、アンパンマンの形成に役立っていると私は考える。詳しくは「第2章 正義と悪について」の「第2節 正義に適している人とは」にゆずるが、やなせは劣等生だったからこそ、弱い者の気持ちを理解でき、アンパンマンという「人の弱さを理解できるヒーロー」を作りだすことができたのだ。
 高等学校の担任である杉山は「一日に一度は銀座で遊んで来い」という考え方の持ち主で、やなせは喜んだが、学校鍛錬の時配属将校からは「これでは戦争はできない」と眼の敵にされ、嘆かれたという。それでもやなせはこの高校で「大切なもの」を学んだと語る。「大切なもの」とは何であろうか? ここでの「大切なもの」は精神的な部分が大きいが、あえてスキル面の「大切なもの」としては、クラス内回覧雑誌を編集して小説を書いたり、校内新聞の編集をして後の高知新聞社で働くのに役立つスキルを身につけたことが挙げられる。また古本屋で井伏鱒二、川端康成、横光利一、太宰治の書物に出会ったことも大きい。特に彼は、井伏鱒二や太宰治の短編を好んだ。井伏鱒二や太宰治との出会いは、後にやなせが詩を書く大きなきっかけになったに違いない。また、友人と映画を見に行くことも多く、特に『フランケンシュタイン』は後にアンパンマンのモチーフの一つになった。
 卒業後は田辺製薬に入社したが、すぐに徴兵されることになる。高知ではなくなぜか九州小倉の野戦銃砲隊に入れられた。原因は検査官いわく「両親がいない上に弟も養子に出され戸籍上は一人で、国のために命を捧げても惜しくないだろうから」らしい。当時の身辺調査票には「軟弱にして気迫に欠ける。男性的気性の養成を要す」と書かれた。当時は友人が一人もいない上に小倉訛りの言葉も分からず、毎日殴られ大変だったという。だが殴られ続けているうちにたくましくなり、軍隊に同化できるようになった。二年後大東亜戦争が始まり中国へ派遣されるが、無事に生還する(この時の詳細は「第2章 正義と悪について」の「第1節 やなせたかしの考える正義とは」にゆずる)。
 帰ると、叔母から弟が戦死したと知らされる(ちなみに叔父は在学中に亡くなっている)。器量が良く誰からも愛された弟は特攻隊になっていたのだ。戦争が終わった時、やなせはすでに二七歳になっていた。しばらくは戦友の屑屋を手伝っていたがアメリカ兵の捨てた本を見ているうちに漫画や挿絵のことを思いだし、「そういった仕事」につきたいと思うようになる。高知新聞社に入社して記者として働くうちに同僚の女性記者小松と仲良くなり、結婚の約束をする。小松は退社して上京し、やなせもすぐに跡を追って退社、上京し事実婚の状態になった(当時は貧しかったので結婚はしなかった。後に正式に結婚)。
 その後三越に入社し、宣伝部に配属される。余談だが、現在の三越の包装紙のサインはやなせたかし本人のものである。
 三〇歳をすぎたころやなせは、漫画を多数投稿し入選したことで、毎夕新聞の漫画頁の漫画部長である松下井知男から呼ばれ編集部に出入りできるようになった。松下は漫画集団員でもあり、周りには若手漫画家が多く集まっていたが、やなせは酒が飲めず孤立することが多かったという。松下の周りには小島功、岡部冬彦、根元進などの優れた新人漫画家がいて、みんな才能を開花させ連載を得ていたが、やなせは投書漫画家の域を出ていなかった。そのころ三越ではストライキが起き、それをきっかけに退社する。このまま三越にいても宣伝部長どまりで出世できない、自分を追いこまなければ漫画家にはなれない、というのも理由であった。幸いやなせ夫人(小松)も働いていたので、貧しくはなったが暮らすのに問題はなかった。以前から小島功らの独立漫画という団体に所属し、先輩から仕事を回してもらい漫画を描いてはいたが、まだセミプロの段階だった。
 しばらくして、NHKの試験放送のタイトルを描いたことがきっかけで『漫画学校』という番組にレギュラー出演することになる。『漫画学校』は三年続き、やなせは「漫画学校の先生」として有名になった。サインをせまられる時もあったが、その時に漫画家として描ける自分のキャラクターがないことに気づいたという。また、有名になったことで仕事は増えたが、出演していた番組が子供向けだったため、学習雑誌など子供向けの本の依頼ばかりですっかり「堕落したような気持ち」になったという。だがやなせは、この子ども向け漫画家への「堕落」をアンパンマン誕生の伏線であったと『アンパンマンの遺書』で語っている。
 このころ手塚治虫の『新宝島』が出版され大ヒットになる。石ノ森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄(F,A)らも手塚の影響を大きく受けて育ち、まさに世に出ようとしていた。だが既存の漫画家の間での手塚の評価は低かった。いずれにしてもやなせにとって手塚は雲の上の存在だった。
 一九六〇年になり四〇歳をすぎたころ、漫画家なのにも関わらずなぜか永六輔にミュージカルの舞台装置を作るように依頼される(ずっと後になって理由を訊くと「個人的にやなせさんの絵が好きだったから依頼した」と言われたという)。このミュージカルは大成功を収め、このミュージカルの音楽担当であり、後にアンパンマンのキャラクターソングの作曲を担当するいずみ・たくと親友になる。またこのころ、依頼された雑誌のインタビューが縁で女優の宮城まり子とも知り合う。その後宮城のリサイタルのストーリー構成を任され、成功を収める。その後も佐野和彦からニュースショーの構成の依頼を受けるなど、本来の漫画とは違う仕事を受け続けたが、やなせは後に『アンパンマンの遺書』で「ストーリーの仕方とセリフが書けるようになったということで、これは後のぼくの仕事にどれだけ役立ったかしれない」と回想している。その後『映画芸術』や『映画ストーリー』でエッセイを書くなど人脈を広げていった。
 一九六〇年代後半、山梨シルクセンター(後のサンリオ)の社長である辻信太郎から詩集の出版の依頼を受ける。その詩集は五〇〇部ほどしか用意しなかったが完売し、何度か出版していくうちに女性のファンもつき、詩と絵を描いた皿やカップを三愛(サンリオの取引先)などで売りだしても好評だった。だが相変わらず漫画家としては「眼にも見えない下の方」であり、漫画集団世界旅行などのイベントのさそいでも無視されるほどだった。
 このころ、『週刊朝日』の漫画賞で大賞を受賞した。友人のいずみ・たくは「やなせさんは立派なプロの漫画家なのに、投書漫画に応募する勇気がある。ぼくは感動してしまった」と言ったが、やなせは苦笑するしかなかったという。さらにこのころ文化放送の笹本利之助から「「現代劇場」のホンがまにあわなくてあながあきそうなんですよ。何でもいいから大至急一本書いてください」という依頼がきた。「現代劇場」はラジオのドラマ番組であり、その台本を書けという依頼である。この時三〇分で完成させたのが『やさしいライオン』だ。これは大変に好評で、後に出版化された。
 この時、なぜかやなせの元に「雲の上の存在」であり「神様」である手塚治虫からアニメ「千夜一夜物語」のキャラクターデザインの依頼が来る。ありえないことだったので、やなせも初めは冗談だと思っていたという。この「千夜一夜物語」も大成功に終わり、手塚からお礼として「ポケットマネーを出すので好きな短編アニメを作ってください」と言われる。短編アニメとして制作した『やさしいライオン』は非常に稚拙な出来だったがまたしても大ヒットし、今でも上映されている。手塚との共作はこれきりで終わったが、漫画の神様手塚治虫からは多くの刺激を受け、キャラクターデザインを通して画風がアニメ風になるなど、今のアンパンマンに通じる影響も受けた。
 一九七三年ごろ、やなせはサンリオの辻社長に頼んで詩集『詩とメルヘン』を創刊した。これもまた大成功を収める。同年、「漫画家の絵本の会」を作り、面白い絵本を作りたいという漫画家を集めた。「漫画家の絵本の会」のメンバーで日本橋の丸善で展覧会を開いた時は、手塚も参加した。同業者には敵意をむき出しにすることの多い手塚だったが、「漫画家の絵本の会」のメンバーとは完全に住み分けができていたため、終始和やかだったという。「漫画家の絵本の会」を通して長新太、馬場のぼる、東くんぺい、柳原良平、前川一夫、多田ヒロシ、長嶋慎二らとも親交を深めた。やなせは、絵本作家になれたのは彼らが師となってくれたお陰だと『アンパンマンの遺書』で書いている。
 このように、やなせの経歴にはアンパンマンが誕生するきっかけが多く隠されているのである。
 これが、アンパンマンが誕生するまでのやなせの経歴である。
 この後ついにアンパンマンが誕生するのだが、アンパンマン誕生の経緯は次節の「アンパンマンはどう生まれたか」で書くことにする。

続きはこちら。

#アンパンマン

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