アンパンマンに見る正義と悪(第1章 第3節〜5節)

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第3節 アンパンマンのモデルから正義について考える
 次に、アンパンマンのモデルについても考察したい。なぜ絶対的正義であるアンパンマンにそのモデルが採用されたのかを考えれば、さらに絶対的正義とはどういうものかが分かりやすくなるからだ。
 先行研究が少ないアンパンマンだが、「なぜアンパンマンはアンパンでなくてはいけないのか」についてはすでに論じられている。
 福田育弘は『早稲田大学教育学部学術研究(複合文化学編)』第56号の「日本人の飲食表現を考える ―『ぐりとぐら』『アンパンマン』『おでんくん』にみる飲食の〈感性〉と〈心性〉―」の二六頁~二七頁でこう書いている。

 戦後の菓子パン文化を支えたのは、甘いものが好きな子どもたちである。菓子パン文化は、日本の子供の食生活とは切っても切れない関係にあるのだ。
 子どもの好きな菓子パンをヒーローにするという発想は、こうした日本的なパン文化の成熟を背景にできたものである。このように考えると、菓子パンをキャラクターにしたアンパンマンが、まさに和洋折衷をもとにした異文化融合型のヒーローであることがわかる。また今ではより人目を引く菓子パンやもっと人気のあるおかずパンがたくさんあるなかで、あえて主人公があんぱんでなければならい(原文ママ)理由も納得がいく。あんぱんこそ、日本風菓子パンの原点であり、その意味で菓子パン業界のヒーローであるからだ。

 要約すると、「アンパンは、戦後の成熟していく菓子パン文化の中で子供に愛され続けた日本風菓子パンの原点であるから、ヒーローとなるにふさわしい」ということだ。これははたして本当だろうか。
『初等教育資料』NO852の「教育の回廊 子どもに育てたい正義とは」の四六頁で、やなせはこう書いている。

 アンパンマンもふだんは非常に弱い。菓子パンみたいなヒーローだから弱いのです。

 どうやらやなせは、アンパンの菓子っぽさで弱さを表現したかったようだ。また『アンパンマンの遺書』によると「日本的」「形が良い」「好きだから」というのも理由らしい。好きな食べ物をキャラクターのモデルにするのは自然なことだ。だが、ここでより重要なのは、やなせはアンパンを軟弱な存在と見なしていることだろう。確かに、同じ具入りのパンでも、ハンバーガーではパワフルな印象を受けてしまう。
 やなせの書く文章を読む限りでは、福田育弘の「あんぱんは菓子パンの原点だからヒーローにふさわしい」という意見は少々的を外れているといわざるをえない。
 アンパンマンはアンパンだけでなく、スーパーマンもモデルにしている。また『私が正義について語るなら』に「物語のはじまりは、あらしの夜にアンパンマンが登場するシーンです。これは映画「フランケンシュタイン」が下敷きになっています。そして、もうひとつ、メーテルリンクの『青い鳥』も重なっています。」と書かれていることも注意しなければいけない。フランケンシュタインは高校時代やなせが見て感銘を受けた映画『フランケンシュタイン』に登場する怪物だ(厳密に言うとフランケンシュタインは怪物を作った人の名前であり、怪物そのものの名前ではない)。醜いが知的で心優しい。やなせは、その姿が醜く(自分ではそう思っているらしい)精神的に弱い自分と重なったという。お気に入りのキャラクターを自分の作品のキャラクターのモデルにするのは自然なことだ。『青い鳥』は、登場人物に「パンの妖精」が出てきて、それが印象的だったという理由のようだ。
 だが、やなせは漠然とフランケンシュタインや『青い鳥』のパンの妖精をアンパンマンのモデルにしたわけではないと私は考える。
 フランケンシュタインやパンの妖精をモチーフにしたのは、アンパンマンをただの登場人物と差別化する目的があるのではないだろうか。今まで述べたように「絶対的正義」を行うことは誰にでもできるが、人間である以上「絶対的正義」そのものにはなれない。アンパンマンは自らの顔をちぎって食べさせて飢えている人を救うという、「絶対的正義」をそのまま擬人化したようなキャラクターだ。パンの妖精やフランケンシュタインをモデルにしたのには、絶対的正義そのものを擬人化したキャラクターとして、アンパンマンを他のキャラクターとは違う特別な位置におきたいという意図を感じる。パンの妖精は魔法の帽子を使わないと見えないという特徴を持ち、また「妖精」という人間とはかけ離れた存在である。フランケンシュタインは醜いながらも人々の手助けをし、人々に受け入れられようとしていた。「愛する人がほしい」と懇願するなど人を愛する心も持っている。周囲から認められない苦しみのあまり自らを作った人物の愛する人を殺害し、そのあと自殺するなどといった弱さも持っている。格好悪さと人を愛する心と弱さを持っている点、そして奇跡によって生みだされたという点で(フランケンシュタインも、生命の謎を解明し自在に操るための研究の過程で奇跡的に誕生した)、アンパンマンはフランケンシュタインに酷似している。フランケンシュタインはやなせの正義像を再現するには最適なモデルであると言えるだろう。この「奇跡によって生みだされた」という部分は、アンパンマンを作中の他のキャラクターと区別する上で重要なことである。鈴木一義も『アンパンマン大研究』の五四頁において、アンパンマンの誕生がある種の「奇跡」であることを示唆している。

 アンパンマン誕生に不可欠な「命の星」は、煙突から入ってきました。アンパンマンにとって、煙突は特別な出入り口なのだと思います。余談ですが、サンタクロースも煙突から出入りしますね。大昔、煙突は魂の出入り口、あの世とこの世を結ぶ窓口などと考えられていたそうです。

 やなせ自身も、同著の三九頁でアンパンマンのあんこについて「あんこの素材や成分についてはわかっていません」「どうも偶然できたみたいで、ジャムおじさんにもくわしい成分はわからないようです」と、アンパンマンが意図して作りだされたものではなく「偶然」という奇跡によってもたらされた、人知を超えたものであることを暗示している。
 最後にスーパーマンだ。「第1節 やなせたかしの考える正義とは」で引用したように、やなせはスーパーマンに対してヒーローとして疑問を持っている。スーパーマンはアンパンマンとは違い派手な服装で、まるで自分を宣伝しているように見えるというのだ。ちなみにアンパンマンのマントは絵本、アニメ、映画共に「つぎはぎだらけでバタコさんに修理してもらってばかりいる」という設定である。『アンパンマンの遺書』によると「人助けばかりしている人は貧しくて新しいマントは買えないと思った」かららしい。新品同様の鮮やかな服を着て飛び回るスーパーマンは、確かにやなせの考えでは絶対的正義とは言いがたいだろう。またスーパーマンは、死亡した恋人をよみがえらせるために腕力で地球を逆回転させ時間を戻したことがある。「自分の好きな人を救いたい」という気持ちは理解できるが、やなせの正義像から考えると、恋人だからといって特別扱いするのではなく作中で死んだ別の人々のためにも時間を戻さなくてはいけないのではないだろうか。正義に私情を持ちこんだ時点で、スーパーマンは絶対的正義とは言えないだろう。
 アンパンマンにスーパーマン風の格好をさせたのは、スーパーマンへのアンチテーゼの意味合い、そして「本当の正義はこういうものだ」というメッセージが強いのではないだろうか。

第4節 アンパンマンは偽善者か
 アンパンマンに見る絶対的正義の考察の締めとして「アンパンマンは偽善者かどうか」についても考察してみたいと思う。偽善とは『広辞苑』によると「本心でなく、見せかけでする善事」のことだという。果たしてアンパンマンは偽善者なのだろうか。アンパンマンは「自分を犠牲にして他人を幸せにする」という非の打ちどころのない絶対的正義だが、その隙のなさにどこか裏を感じないと言えば嘘になる。実際に『それいけ! アンパンマン いのちの星のドーリィ』ではドーリィ(命が宿っている捨てられた人形)に偽善を疑われている。以下は、アンパンマンの行動に疑問を持ったドーリィがアンパンマンに質問する場面である。

アンパンマン「ぼくが何のために生まれてきたかって? そうだなあ、困ってる人を助けるためかな?」
ドーリィ「嘘、アンパンマンはみんなにカッコ良く見せたくて、そんな嘘ついてるのよ」
アンパンマン「え?」
ドーリィ「誰だって自分が一番大切でしょ? わざわざ人のこと助けたいなんて変よ」
アンパンマン「ぼくだけじゃなくて、誰にでも人を助けたい気持ちはあると思うよ。それに最初は分からなかったんだ、困ってる人を助けた時に心が暖かくなって、その時分かったんだ。ぼくが何のために生まれてきたのか、何をして生きていていくか、何がぼくの幸せなのかってことも」
ドーリィ「つまんない! 自分だけが楽しければ良いのよ」

 アンパンマンが自己を犠牲にして人助けをするのはもちろん自分の意志で、他人から強制されているものではない。そして、前述の映画で(映画の脚本もやなせのチェックが入るので、やなせの思想に反したことは描かれない)「人を幸せにすると自分がうれしいから人を助けている」とアンパンマンが告白していることを考えると、アンパンマンは究極的には「他人のため」ではなく「自分の幸せのため」に人助けをしている「偽善者」だと言わざるをえない。アンパンマンの最終目的は「他人を幸せにすること」ではなく「自分がうれしい気持ちになること」だからだ。だが、その偽善行為により多くのキャラクターが救われていることは事実であるし、やなせの考える「本当の正義」を実行することにより自分が幸せになること自体は悪ではない。

 自己犠牲と言うと自分だけが犠牲になると考えがちだけど、われわれは全部助け合って生きているんです。自分だけでは生きられないですよ。人を助けることによって自分も助かることがあるのです。例えば、伝染病の病院で働いている人は、そこで働くと自分も感染するかもしれないという危険は十分あるわけでしょ。でもそれをやることによって、自分も救われてくる部分がある。本当に人間というのは不思議で、自分が犠牲になってやっているようなことでも、そのことによって自分が生きることがあるのです。(「福島みずほのいま会いたいいま話をしたい――今月のゲストやなせたかしさん一番間違っているのは〝戦争〟社民党を面白くしてください」 『社会民主』615号 二二頁)

 アンパンマンは恐らく人助けによって生かされている(生きがいを感じている)部分もあるのだろう。現に、人の迷惑を顧みず自分のためだけに好き勝手遊び歩いていたドーリィは、どんどん命の星が小さくなり、あと一歩で死んでしまうところまで追いつめられた。物語の終盤ドーリィは、命の星が抜けて死亡したアンパンマン(今の形になったアンパンマンが本当に死んでしまうのはこの時だけである)に命の星を渡すという「絶対的正義」を行って死亡(ただの人形に戻った)し、最後は新たな命の星が降ってくるという「奇跡」のお陰で命が戻り、人間の体を手に入れた。ドーリィは、絶対的正義を行うことにより「生かされた」のだ。
 アンパンマンやドーリィの行いは、結果としては自分のためであり偽善だ。だが、偽善と悪は別のものなのだ。
 よってアンパンマンは「偽善の心を持つ絶対的正義」であると結論づける。

第5節 「やなせメルヘン」に見る正義
 アンパンマン以外の作品からも、やなせの中の正義について考察してみることにする。
 やなせは自らの書くおとぎ話を「やなせメルヘン」と銘打っている。メルヘンという確立したジャンルにわざわざ自分の名前をつけるということは、「自分の書くメルヘンは他の人の書くメルヘンとは違う」という認識、自負があるのだろう。
 『やなせたかしメルヘンの魔術師90年の軌跡』には、「やなせメルヘン」の例として「天使チオバラニ」と「杉の木と野菊」の二つの短編が載せられている。「やなせメルヘン」であるこの二点からもやなせの正義像が浮き彫りにできるので、ここで紹介していきたい。
 ちなみに「天使チオバラニ」は一九九〇年発売の『十二の真珠 ふしぎな絵本』、「杉の木と野菊」は朝日小学生新聞(二〇一〇年一一月一日)が初出と思われる。つまりいずれもアンパンマン誕生後に書かれたものである。
 「天使チオバラニ」のあらすじは以下の通りである。
 赤の国と青の国の国境にはマンナカ山があり、国境にはユレルという少女とその母親が住んでいた。ユレルは国境で生まれたため、まるで国境線のように、身体の真ん中を縦に大量のホクロが走っていた。ユレルはこのホクロが大嫌いだった。天使にホクロが消えるように何度も願っていたが、返事はなかった。やがて、赤の国と青の国がマンナカ山の領有権をめぐって戦争を始めた。国境は目に見えないものなので、どちらが悪いというわけでもないが、やらないとやられるので仕方ないという理由である。毎日大勢の兵士が死に、血が流れた。ユレルは国境に住み両方の国を愛していたので大変悲しい気持ちになった。ユレルが戦争を終わらせるように天使に祈ると、天使が目の前に現れた。「今までいくら願っても来てくださらなかったのになぜ今さら現れたのですか」と非難すると、「私は自分のために願う人は救わない。あなたは今始めてすべての人を救うよう願った。だから来たのだ」と答えた。天使はチオバラニと名乗り、「人を救うには私の名前を一〇〇回唱えなさい」と行って立ち去った。ユレルが家を飛び出し赤の国と青の国を移動しながら「チオバラニ!」とさけぶと、倒れた兵士の血がみるみるうちに薔薇になり、戦争が終わってしまった。ほどなくして赤の国と青の国は併合され、新しい女王としてユレルが擁立された。ユレルの体からは、国境線のようなホクロは消えていた。
 「杉の木と野菊」のあらすじは以下の通りである。
 野菊は自分が小さい存在であることを悩んでいた。杉の木に相談すると、杉の木は「自分も体がごつごつして醜いことを悩んでいる」と打ち明けた。野菊は驚いて「あなたは大きくてたくましいから、ずっとあこがれてたのに」と好意を伝えると、杉の木も「実は自分も美しいあなたが好きだったが、自分のような醜い者があなたのような美しい者にそんな気持ちを伝えるのははばかられていた」と答えた。その時不意に嵐がやって来た。杉の木は体をはって野菊を守るが、嵐で折れて死んでしまう。だが、折れた杉の木の隣には小さい杉の木が生えていた。杉の木は一度死んで、新たな生命として生まれ変わったのだ。
 この二つの「やなせメルヘン」からも、やなせの正義像を探っていこう。
 「天使チオバラニ」からは、「戦争に明確な正義や悪はない」というやなせの持論が読み取れる。また、敵と味方に分かれ殺し合うことの馬鹿馬鹿しさを、「国境が体に染みついた少女」というキャラクターで表現している。天使の「自分のために願う人は救わない」「みんなのために願う人を救う」という考えは、アンパンマンの「自らを犠牲にしすべての人を平等に救う」という考えに酷似している。また「杉の木と野菊」で醜い者として書かれ、自らを犠牲にして他人を救った杉の木は、アンパンマンに似ている。「自己犠牲によって生かされている」点も、アンパンマンと同じだ。
 これらの「やなせメルヘン」からも、「絶対的正義、絶対的悪は存在しない」「ただし自己犠牲は唯一の絶対的正義」「正義は格好よくない」というアンパンマンと同様のメッセージを読みとれる。そういったやなせの「正義」に対する持論を軸に書かれた話を「やなせメルヘン」というのだろう。

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