アンパンマンに見る正義と悪(第1章 第6節〜7節)


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第6節 やなせたかしによる「絶対的正義」の実践
 やなせたかしは絶対的正義を「自己を犠牲にしながら、『明らかに困っている人』を助けること」と定義づけた。そんな彼が「絶対的正義」を行っている実例を発見したので、「絶対的正義」の具体例として紹介したい。
 二〇一一年三月一一日、東日本大震災が日本を襲った。当時やなせは九二歳であり、すでに難聴が進行し、内臓の病気で何度も手術をくり返していたため表舞台からの引退を考えていた。だが東日本大震災が彼の気持ちを変えたという。

 被災地に義捐金を送るとともに、アンパンマンのポスターを描きおろして宮城県の友人に送ったところ、配布された避難所や病院で大変喜ばれました。また陸前高田市には「陸前高田の松の木」の歌を作詞作曲して贈りました。(「手のひらを太陽に」50周年記念 やなせたかし巻頭インタビュー「生きているから歌うんだ」 『MOE』 一一頁)

 その他にも彼は、「被災し笑わなくなった子どもがラジオで『アンパンマンのマーチ』を聞いたら笑った」といった話を聞いたという。彼は自分の作品が被災地を元気にできることに気づいて考えを変え、引退を延期することを決意する。
 彼は二〇一二年、高齢と病気を理由に日本漫画家協会の理事長を辞任した。だが、創作活動だけは続けている。限界を感じ仕事を減らしながらも人を助ける仕事だけは辞めずに続ける彼は、「自らを犠牲にして人を助けている」という意味で、立派な「絶対的正義」だと言えるだろう。

第7節 やなせたかしの考える悪とは
 やなせにとって悪とは何であろうか。絶対的な逆転しない正義があるのと同様に、絶対的な逆転しない悪は存在するのだろうか。絶対的な逆転しない正義を擬人化したといっても過言ではないアンパンマンには、宿敵がいる。ばいきんまんだ。彼こそやなせの考える絶対的悪を擬人化したものではないだろうか。ここではばいきんまんについて考えていこう。
 ばいきんまんは第1章の「第3節 アンパンマンはどう生まれたか」で述べたように、ミュージアムの舞台でアンパンマンの引き立て役として誕生したキャラクターだ。ハエとばい菌をモチーフにしている。彼はばいきん星の住人で「アンパンマンを倒す」ためだけに地球に移住してきたという。彼は生まれながらにして絶対的正義と敵対する存在なのだ。赤ちゃんの時卵型の宇宙船で地球を訪れ(地球にあった卵がばいきん星からの雷で孵ったという設定もあり、一貫していない)、岩場に基地を作り日夜アンパンマンを倒す策を練っている。居候のドキンちゃんやホラーマンと協力し、ドクターヒヤリーなど悪い仲間との人脈も着々と築き、べろべろまんやかびるんるん、やみるんるんなどの手下も従え、アカキンマン、アオキンマンなど同郷の仲間にも協力させているが、未だにアンパンマンを倒す夢は実現していない。
 現在本屋で手に入る絵本やアニメを見る限り、ばいきんまんは悪である。だが読売新聞(二〇〇九年八月一二日夕刊「松任谷由美プレミア対談YUMIYORIな話 第14弾やなせたかしさん」)ではやなせ自身が「ばいきんまんは魅力的」と語っている。
 また『私が正義について語るなら』の二四頁では

 アンパンマンは少し優等生なんですね。だから、読む人はどうしても暴れ回っている方に感情移入するというか、好きになってしまう部分が出てきます。

と書いている。ばいきんまんを単なる悪とは考えていないようだ。
「アンパンマンは優等生」という表現は、アンパンマンが正義を擬人化したかのように欠点のない模範的なキャラクターであるために出たものだろう。
 では、悪であるばいきんまんが魅力的とはどういうことだろうか。
私が思うに、ばいきんまんの魅力はアンパンマンにはない人間臭さだ。自らを犠牲にして他人のために尽くすアンパンマンは確かに立派だが、聖人君子すぎてある種の近寄りがたさ、親しみにくさがある。本当の意味で自らを犠牲にして他人の幸せを心から喜べる人間など、実際にいるはずはないからだ。作中でも、ドーリィやハピーなど、アンパンマンの正義像を理解できず見下す言動を取る者は意外と少なくない(彼らはいずれも後に改心する)。

 完全に善の人はいない。もしそういう人がいると、とても気持ちの悪い、付き合いきれない人になるはずです。(『私が正義について語るなら』三三頁)

 それに対してばいきんまんは、腹が減れば食べ物を奪い、退屈ならおもちゃを強奪するという非常に本能的な性格をしている。ばいきんまんのこういった悪行に人間らしさ、親しみを感じることもあるだろう。
 ただ彼は、いつも悪いことだけをしているわけではない。本当に町の住民が危機に陥るととっさに助けてしまうことがあるし、普段は敵対している登場人物と遊ぶこともごくたまにだがある。やなせ自らが描いた『アンパンマンのおはなしわくわく③アンパンマンにはないしょ』にいたっては、アンパンマンの誕生日を祝うサプライズパーティーに、ばいきんまんが憎まれ口をたたきながらも積極的に協力している。ばいきんまんは本能の赴くまま行動しているだけで、根っからの悪人ではないようだ。ばいきんまんイコール悪が擬人化されたものという考えは間違いだろう。
 ばいきんまんは、言うまでもなくばい菌がモチーフとなっている。一方アンパンマンは、アンパンがモチーフだ。ばい菌はアンパン(食べ物)を腐らせるが、果たしてその時ばい菌は悪だろうか? 人間からしてみればそうだが、ばい菌にしてみれば単なる栄養を補給する行為であり、もしばい菌に意思があるならば、食べ物を腐らないように管理する人間こそ悪に見えるだろう。
 やなせは「絶対的な逆転しない正義は献身と愛」と語った。正義や悪は行いにのみ存在するものであり(しかもその行いを見ている第三者によって、その行いが善行、悪行どちらなのか評価が分かれる)、正義や悪そのものは生き物として存在しえないのである(絶対的正義である「献身」「愛」を直接擬人化したアンパンマンは例外である。直接擬人化したゆえに、作品の登場人物からも時に疑われるほど不自然な近寄りがたい性格の持ち主になってしまった)。今でこそ二千を超えるキャラクターを抱えるアンパンマンシリーズだが、最初はてんどんまん、かつどんまん、かまめしどん、おむすびまんなど食べ物系のキャラクターがほとんどであった。このシリーズは、飢えた人にアンパンを与え救う話であると同時に、食べ物対ばい菌という戦いを描いた作品だったのだ。この戦いに善悪は存在しない。人間の立場で書かれている以上ばいきんまんが悪役だが、それは役割上の悪であり絶対的悪ではない。やなせたかしは戦争を食べ物の腐敗に例え、かわいらしく、面白おかしく、だが極めて正確に、ある意味とても冷静な視点で描いているのだ。飢えている人がよく現れ、毎回アンパンマンとばいきんまんが戦っているアンパンマンの世界(アンパンマンワールドという)は戦場と何ら変わりはない。やなせは『私が正義について語るなら』の一五七頁で

 光がなければ影もないし、影がなければ光もない

と語っている。アンパンマンとばいきんまんは相対する存在であり、和解することは決してない。
 これらのことから、やなせの中の「悪」がどのようなものか推測してみよう。
 まず、ばいきんまんは悪そのものを擬人化したものではない。むしろ、良い面も悪い面も持った普通の人である。ただ単に「本能的に行動した結果他人に害を及ぼすことが多い人物」といった方が適切だ(次の項で述べる考え方では「良心で悪心を抑制しきれていない人物」とも言える)。「アンパンマンが『献身』や『愛』といった絶対的正義を行いやすい環境を作るキャラクター」とも言えるかもしれない。ばいきんまんのいたずらは食べ物の腐敗を表現しているのだろう。食べ物が腐敗すればアンパンマンが「飢えている人を救う」という絶対的正義を行うことができる。前述の通り食べ物を腐敗させることそのものは、ばい菌にしてみれば栄養を補給する行為であり悪ではないので、ばいきんまんは絶対的な悪ではないし、絶対的な悪など存在しないと言って良い。ただ、食べ物を腐敗させ不足させることは人間の生存に直結する問題なので、アンパンマンたちに「悪」と認識されても仕方がない。マルチェッラ・マリオティは『ソシオロジ』NO136第44巻2号の「それいけ! アンパンマンの社会学」の二六頁でその対立構造をこうまとめている。

 人間であるジャムおじさんにとって、アンパンマンは命を支える料理であり、バイキンであるバイキンマンは命を支える料理の「敵」である。アンパンマンに代表されている「命」とバイキンマンに代表されている「命の敵/死」という連想によって、アンパンマンとバイキンマンの属性的な要素の対比が明らかになる。

 ばいきんまんはテーマソングの一つである『ハ行で笑うばいきんまん』で、「愛と正義が何なんだ! お利口ぶるなよバーイバーイキーン!」「俺は正義の敵なんだ!」などと歌っているが、これも、彼が「絶対的正義」であるアンパンマンに反した行動を行っているということを示しているのではないか。また「正義の敵」という歌詞からは、アンパンマンの正義に刃向かいながらも「アンパンマンの正義は自分にとって正義ではないし、自分は決して悪ではない」という姿勢を感じる。そもそもばいきんまんは「俺様悪いこと大好き」などと口走ることはあるが、自分を「悪」ということはめったにない。ばいきんまんは、自身のしていることが世間一般では「悪」とされていることを自覚しながらも、自分のことを「悪」だとは思っていないのだろう。
 世間一般において「悪」と言われる人も他の立場から見れば「正義」であるかもしれないし、少なくとも本人は良いと思ってやっている場合がほとんどである。またそうでなかったとしても、悪の面しか持っていない人は存在しない。すべての人間は正義と悪両方の一面を持っていて、結局のところ絶対的悪は存在しえないのだ。これが、やなせの中の「悪」のイメージである。

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