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青い隣の景色
家に籠ってばっかだと足も心も固まりそうなのでたまに知り合い誘ってご飯に行ったりしてます。というか最近まではそれしか近隣を脱出していない。書き込まれることが少ない予定表もあまりの白さに泣いています。
そうして窮屈さを抜け出す先で、度々知り合いが声をかけられる。「〇〇さんですよね」当然自分には、声はかからない。その一声が世間に認められてるようで羨望を感じる。その間声をかけられなかった自分らは学芸会の木よろしく空気と同化して知り合いを形作る背景の絵作りに尽力する訳です。声を発する事は許されないのだ。
しかし当人にとっては毎度の事のようで、周囲に行動を監視され自由な振る舞いを制限されているように感じるみたい。「無名って良いよなー」なんて愚痴をこぼされたり。
どうみたって結果を残して周囲に認知されている方が偉い。大会で毎度24~48前後で消えていくんで、いるんだかいないだかみたいな存在感だし。自分のやりたい事で人の記憶に残る方がカッコいいと思うが、人の目を引かず奔放な自分らの振る舞いの方が知り合いには良いみたい。
そんな訳で実を得たことがない無名を羨ましがる知人と、賞賛と結果を得られている有名を羨ましがる自分とで奇妙すぎる相互関係にある訳です。俗にいう隣の芝生は青いってやつ。
ただ得られたものがあって初めて見える事があり、得た代わりに失うものがあるのは当人にしかわからないと思う。そう考えれば果実を食べたことが無い代わりに自由と幸福を自分は享受しているのかもしれません。
犠牲無しに何も得る事は出来ない、何かを得るためには代価が必要になるなんてまるで鋼の錬金術師序文の一コマみたいですね。
同じ趣味を持ち行動を共にするのに、時として全く異なる羨望が交錯するなんてとても不可解で面白い。
何か運が違えばもしかしたら俺とお前逆だったかもしれねえ…
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何にせよその視座を得ていない自分にとって隣の芝生は何よりも青く見えるのだった。
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