見出し画像

障害は持つものではなく、その場にあるもの。

 私は障害児者に関わる仕事を始めて20年近くになります。学校(実は福祉でなく保育の学校)の授業では「障害」とは、その当事者が「持つ」ものと教えられました。具体的に書くと、「知的な遅れがある」→「信号の理解が出来ない」→「外出は危険」→「外出の機会が少ない」といった風です。これを「個人モデル」と言っています。

 また、この頃は障害児者施設の直接処遇職員を「指導員」と呼び、施設によっては「〇〇先生」と呼称していました。支援も当事者が一般社会に適合出来るように、まさしく縦関係で「指導」するのが普通と思われていました。(もちろん、その頃からそういった風潮に違和感を感じて、もっと障害児者本人主体の支援をしている施設もありました)

 私が学校を卒業する頃、ちょうど21世紀に差しかかる頃にWHO(国際保健機関)が「ICF」という障害に対する分類の新たな考えを発表しました。これは、障害というものをマイナス面だけでなく、プラスの面から見ていこうというもので、例えば、「知的発達遅滞」というのは、個人の一つの「機能」であって、個人のプラス因子や環境の調整により、社会参加等における障害は軽減、もしくは無くせるという考え方です。

 これにより、「障害」は個人が持つものでなく、社会の側に彼らが生き辛さを感じる「障害がある」という考え方に変わってきました。これを「社会モデル」と言います。しかし、障害福祉に携わる者であっても、まだICFの本質が掴めていない、若しくは古くからの習慣で「障害を持つ」と言っている人が多いのも確かです。 これにより、「障害」は個人が持つものでなく、社会の側に彼らが生き辛さを感じる「障害がある」という考え方に変わってきました。これを「社会モデル」と言います。しかし、障害福祉に携わる者であっても、まだICFの本質が掴めていない、若しくは古くからの習慣で「障害を持つ」と言っている人が多いのも確かです。 これにより、「障害」は個人が持つものでなく、社会の側に彼らが生き辛さを感じる「障害がある」という考え方に変わってきました。これを「社会モデル」と言います。しかし、障害福祉に携わる者であっても、まだICFの本質が掴めていない、若しくは古くからの習慣で「障害を持つ」と言っている人が多いのも確かです。
 長くなりそうなので、また続きを書きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?