幸せや愛を享受する人間の無自覚な暴力

 「幸せな人間」って時々他人にとても残酷になれるのがとても怖い。幸せゆえの不幸せの無知、というのがあって、だからこそ「陰キャは陽キャが嫌い」だったりするのではないか、と思う。
 幸せで、満ち足りてて、愛されている人間というのは時々「努力すれば叶う」とか「人に愛されるにはまず自分から愛する」とか「環境のせいにするのは甘え」とかそういうことを口にしたりする。幸せな人間は何もかも持っていると思われるかもしれないけれど、不幸せで報われない他者への理解はほとんどの場合圧倒的に足りない。それが怖い。
 私が悩んでいることを吐露すると本気で「なんで?」って顔をする。病んでいる人間について「病む、とか理解できないんだよね。落ち込んだって現状が変わるわけじゃないんだから、同じ状態ならポジティブに考えたほうがずっと良いでしょ」とか言ったりする。すごいこと言うなコイツ、って本気で思う。

 でも、自分が幸せになったら「不幸せな他者」の心情を考えることが出来るのかと言われれば自信はない。最近の私、大切な人たちからとても大切にされて、自分のしたことを認めてもらえて、周りに自分を思ってくれる人たちがたくさんいて、あぁ幸せだなあと思う。幸せにどっぷり浸かっていくたびに自信がついていくし、私は私って思えるようになって、「見渡せばこんなに多くの人に支えられている」とか思えるようになって、「みんな大好きだ」と思えるようになって、「人に感謝する気持ちや人を愛する気持ちを忘れなければきっと幸せになれるな」とか思うようになって。そしてその度にどんどん「誰からも愛されない苦しみ」とか「全員が憎い」とか「私はこんなに頑張っているのに」「どうして私は何もできないの」「どうして人より劣っているの」とかそういう気持ちが薄れていく。それがすごく怖い。私はどんどん辛い気持ちや不幸せな気持ちに鈍感になっていく。無理やり辛さや憎しみを忘れないようにしている。いつか他人に無自覚な暴力を振るってしまいそうでとても怖い。「もっとポジティブに考えたら物事上手くいくよ」とか「努力したら大丈夫」とか「自分を認めてあげれば、他人に何を言われても大丈夫だよ」とか、言う人間になりたくない。ならないようにしたい。でも何が正解なのかも分からない。幸せにならないことが正解ではない気がするし、「自分を認めてあげることが大事」なのは多分ほんとうにその通りだし。

 という答えのない話でしたがみなさんはどうですか?良ければコメントとかくださいな。

 さて、今日はぽん酒グリアという日本酒のサングリアを飲みました。ほどよくお酒も入って気持ちが良いところで今日は寝ます。おやすみなさい。 

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