うごくメモ帳を黒歴史と呼びたくない

小学5年生の頃だったと思う。
スマートフォンや携帯電話など勿論無く、親のパソコンもほとんど使わせてもらえないわたしにとって、ニンテンドーDSiは、唯一自由にインターネットを利用できる機械だった。
当時のわたしは、あの画面が見辛く、通信もやたら遅いDSiを駆使して、日夜インターネットの海に飛び込んでいた。

そんなわたしが何よりハマっていたのは、『うごくメモ帳』という無料で遊べるお絵かきソフトだ。
タッチスクリーンを使って絵を描いたり、パラパラ漫画のような手書き動画を作ることができるといった触れ込みだった。

うごくメモ帳にはDSi版と後続の3DS版があり、わたしが熱を上げていたのはDSi版で、3DS版はほとんど触ったことすらない。上記サイトは3DS版のものだが、大まかな機能としては大体同じだろう。
サイトを見てみたところ、3DS版ではたくさんの色が使えるようだ。DSi版では黒赤青の3色(しかもレイヤーが2層しかなく、レイヤー毎に1色のみを割り当てる形式だったため、画面内に入れられるのは最大で2色)しか使えなかった。パッと見て分かる大きな違いといえば、これだろう。

DSのタッチパネルは小さく、感度も良いとは言えず、絵を描くには制限が多すぎて億劫だが、うごメモの真髄はその先――ソフト内でインターネットに接続することで、自分の作品を投稿したり、人の作品を閲覧したりすることができた――にあった。
そう、そこはpixivとニコニコ動画とブログを足して割ったみたいな、小さな、しかし子供にとっては広大な、1つのSNSとして機能していた。

難しい操作もなく、ゲーム機ひとつで完結するから、無論小・中学生が多かったように思う。
投稿されている作品は、プロ顔負けのアニメーション動画から、ボーカロイド曲のPV、歌ってみた、一枚絵、漫画、小説、ただの日記……なんでもあった。シンプルであるが故に、自由度が高かった。
わたしは小まめに新着をチェックし、お気に入りの作品にスターを連打し、自分でも見よう見まねで作品を作ってはせっせと投稿した。

作品自体にコメントを送ることもできたはずだが、うごメモというSNSにおいての交流は、主に作品を用いて行われていたように記憶している。
作者が許可していれば、他人の作品をダウンロードして自ら手を加えることが可能、という機能があって、それを利用して交流用の作品というものがたくさん投稿されていた。
交流用の作品は、サムネイルに「○○掲示板」といった風に話したいトピックが大きく書かれているのが目印で、イメージとしては交換日記が近い。
参加したい話題の作品を見つけたらダウンロードし、ページを追加して書き込みアップロードする。するとそれをまた次の参加者がダウンロードして……とラリーが続いていく。
多くの場合、それは「掲示板」と呼ばれていたと思う。(特定のメンバーでのみ行う場合は、「交換日記」と呼ばれていた)
「掲示板」を通して、絵の上手な子と仲良くなったときは嬉しかった。憧れのその子にとびきり気に入られたくて、病んだ内容の日記が投稿されればすぐさま慰め、ちょっとしたアンチコメントに嘆いてたときは「◯◯ちゃんをいじめるのはやめてください」とサムネイルに書いた作品を投稿してみせることで色目をつかった。彼女の周りにはそういうことをする取り巻きがたくさんいて、わたしは彼女にとって有象無象の一人でしかなかった。

小さな白いキャンバスは発想次第でなんでもできて、拙いけれど自由な作品作りと、それに伴う交流がすごく楽しかった。

そうやって色々な人と盛んに交流していくうちに、特別に仲のいいグループができた。確か、『魔人探偵脳噛ネウロ』について語る「掲示板」繋がりだった気がするが、定かではない。
わたしを含めて男3、女2のグループで、全員子供ではあったが、その中でもわたしは一番年下だった。
そのうち我々はうごメモを飛び出して、メンバーの一人がどこかのチャットサービスに立ててくれた、専用のチャットルームで毎日話すようになった。わたしは夜な夜な、DSiに備えられたWebブラウザーからチャットルームにアクセスしては、タッチペンを駆使して、小さなキーボードからすごい勢いで文字を打ち込んでいた。
グループの中で妹キャラを確立したわたしはたいそう可愛がられ、他のメンバーを◯◯にい、◯◯ねえと呼んでいたのを覚えている。

関係はおよそ1年か2年続いたが、わたしが「姉」と呼んでいた女性を起因として、我々のコミュニティはゆるやかに崩壊していった。
「妹」に心配をかけまいと気を遣われていたのか、ガキには関係ないと除け者にされていたのかはわからないが、わたしが詳細な状況を知ることは叶わなかった。
当時のわたしが会話の端々からなんとか理解できたことといえば、「姉」と2人の男性が何やら複雑な関係になっているらしい……という雰囲気と、もう5人で楽しく会話していたころには戻れないであろうという確信めいた予感だけである。
(かつて兄、姉と呼んだ人たちの名誉のために言っておきたいのは、彼らはけしてコミュニティを崩壊させようとして崩壊させたわけではなかっただろう、ということだ。真実は知る由もないが、わたしは今でもそう信じている)

その頃からだろうか。
パソコンを以前よりも自由に使わせてもらうことができるようになったわたしは、うごメモを離れてTwitterを始め、より広く開かれた世界での新しい出会いと交流に夢中となった。
大好きだったチャットルームへログインする回数は、徐々に減っていった。他のメンバーも似たようなものだったのか、複数人が同時にログインしてリアルタイムに会話するといったことは、いつの間にかほとんど無くなっていた。
たまにルームへログインしては、一言二言(久しぶりにみんなで話したいな、みたいな当たり障りのないこと)を残してログアウトし、次にきた者も似たようなことを書き込み……を繰り返し、チャットルームはほとんど掲示板と化していった。
ついぞチャットルームに5人が集結することはなく、書き込みの間隔はどんどん長くなり、そして、いつしか完全に途絶えた。

さっき部屋を掃除していたら以前使っていたDSiを引き出しの奥底から発掘したので、久しぶりに、とても久しぶりにあのチャットルームにアクセスをしてみた。

エラー。指定されたチャットは存在しません。

ああ。なんだか、分かってはいたんだけれど、アクセスをしなくなったのはわたしなんだけれど、それでも少しだけむなしくて、悲しい。

インターネットを通してできた知り合いと3年以上連絡を取り続けるのは珍しい、みたいな話を見かけたことがある。
だからきっと、こんなのはよくある話なんだろう。
今思えば、なんの共通点もない集まりだった。毎晩毎晩、何をそんなに話し込んでいたのか思い出せないくらいの。
でも確かにあの頃、わたしたちはとびきり仲良しで、一緒に過ごす時間が楽しくてたまらなかった。
会話のなにもかもがあまりに痛痛しく、恥ずかしいものだったが、黒歴史という言葉で簡単に片付けたくはないなと思う。
当時の自分が3つの人格を使い分けてチャットをしていたことは出来れば忘れたい過去だけれど、彼らとの出会いはかけがえのないものだった。それはこれからもずっと変わらないことだ。

かつてわたしの兄であり、姉であった人たち。あなたたちが、今日もこの地球のどこかで、どうか健やかでありますように。

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