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日曜日の悪い旅


 日曜日、新緑の眩しい昼下がりに、レースのハンカチを握るわたしの小さな手のひらは震えていた。ジェーンマープルの赤いジャンパースカートの裾を揺らしながら、床の木目に沿って真っ直ぐ進み、舞台の真ん中に貼ってあるバミリにつま先がかかったところで右へ曲がる。おそるおそる客席のほうを向いた。

 浅くお辞儀をすると、まばらな拍手が起こる。なるべく遠くに視線をやっても、身を乗り出してわたしの様子をうかがう大人達が見えた。目を合わせないよう客席の後方にある非常口に意識を向ける。
 心臓は跳ね上がるように大きく鳴り、その反動で吐き気を催すほどだった。椅子に座る前に高さを調整する。きっとどの位置に合わせてもしっくりこないので、いつも前に弾いた子供より少し高く上げることにしていた。
 ハンカチで手のひらの汗を拭って、鍵盤にそっと指をのせる。汗のせいで指先が僅かに滑って、音は出ていないのに鍵盤越しにピアノ線が震えているような感覚があった。その瞬間に頭の中が真っ白になって、このままでは弾くことができない、弾く前に終わってしまった、とぐるぐる思考を巡らせながら、もう一度ハンカチに手を伸ばす。
 背後、ステージ袖から、母の小さな舌打ちが聞こえる。

 人生が終わった。
 小学二年生のわたしは、絶望していた。

 自宅へ戻ってすぐ、グランドピアノの前に座らされた。母は震える音で弾いた情けない曲をもう一度聞かせてみろと言う。弾き始めから数十秒経つと、母は、幼い指が鍵盤に這っているのを凝視してから、思いきりわたしの中指を捻り上げた。
 もうピアノを弾く資格がないということだ、やっと見放してくれたのだと幼いながらも安堵していた。わたしの右手の中指は折れていたが、これで済んでよかった。もう家の中で半年間無視されることも、この防音室に八時間閉じ込められることもない。

猛烈な吐き気。光るレーザーライトがまるで刺すように目の端のほうをかすめる。歌おうと思っていた曲がデンモクに出てこないので、大人になったわたしはパニックに陥っていた。
音楽って何だっけ?あくまで受け取るものだけが音楽であるなんて……歌えるって何?“できる”って何?

今わたしの人生は一体どこにあるんだろう。


よくよく見たら世界は三層に分かれていて、ピアノを弾く幼い自分を一階に置き去りにしたまま、わたしは二階へ移動していた。冷たい青色に覆われたひとつ下のフロアと違い、夕焼けのように全体がオレンジ色だった。見たこともない場所なのに、職場だとわかる。自分のデスクへ向かう。

手にマッチを持っていた。都合よくガソリンもあった。もう好きでもないのに、弾く必要もないのに……あたりを見回して、ピアノがないことを確認してから火を放った。

「なんでなんで!一階に戻らせて!いやだよう、どうして……」
都合のいい幻覚の世界の中にいる。ドビュッシーのアラベスク第一番が流れてくる。目を閉じたままでも、指が折れていても弾ける曲。慰めであり、呪いの曲。

「無能。死ね」「不細工だからそういう音が出るのね」「間違えたでしょう」「最初から弾いて」「男に生まれなかったのだから、せめて」「あっち行って」「ピアノが唯一の友達だったんじゃないの?」「絶対に捨てちゃあダメだ」「投げやりにならないで 」「天才だよ」「変わってるよね」


「ねえ、本当に本当に愛してるから、ずっとどこにも行かないで。一生僕のそばにいてね」


頭の中で反響していた声はアラベスクにかき消された。
知らない誰かに腕を掴まれてデスクから引き離される。グラスを手渡され、落ち着いて水を飲むよう促されて、わたしは大人しく従った。
このまま火が消えても、わたしはきっと一階には戻れないだろう。大粒の涙をこぼし、泣きながら笑っている。身が引きちぎられるほど悔しいはずなのに、心の底から安堵していた。

どこの誰が弾いているかもわからないアラベスクを聞いて救われてしまう人生に、まるで乾杯するかのように手を伸ばして、縋るように、グラスの中身を一気に飲み干した。なにも掴めないまま力が抜けて「愛してたのに、心の底から愛してたのに……きみはわたしのことを一度も愛してくれなかったじゃないか」と、か細い声が煙の中に消えていくころには、冷たい青色が、もうどんな色かも忘れてしまった。
鼻を啜りながら笑う。我ながら、思わず噴き出してしまうくらい、本当に情けない声だった。


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