毒親の正体。


私事ですが、昨年末結婚を致しました。
特にこれと言って生活に大きな変化はないのだけど、私にも家族ができました。

私は小さい頃からずっとひとりでした。
自分を孤独だと思ったことは無かったけれど、逃げ場もなく、誰かが守ってくれることもない。
安全地帯はなく、ずっと何かに緊張していて、自分が自分であるために、強くあらなければならないと思って生きてきました。

何もかもを脅かす敵である母
母の味方の祖母
味方だからと言いつつ側にいない父

家庭の中で常にひとりでした。

そして逃げるように自分の居場所を何かに求めたけれど、どこに行ってもあまりうまくいきませんでした。

それもそのはずで
私は努力の仕方を知らなかったし、勉強の仕方も知らなかったし、他人との関わり方も距離感も、本当に何も知りませんでした。
罵倒され続ける日々の中で色んなことが麻痺していて、無意識に悪気なく周りを攻撃してそれで嫌われる事が多くありました。

私は洗脳されていない。
母の思ったようには動かない。
自分は自分なんだ。

そう強がっていたけれど、結局は母の言いなりで、思考や行動が全て毒されていたと、絶縁して2年経ってようやく気づきました。

相変わらず努力も勉強も、他人と関わることも嫌いだけれども
なんでもやろうと思えばできないことはないし、自分が思っているよりも周りは私のことを受け入れてくれていて、きちんと好意を示してくれていて、こんな私でもここにいていいのだなあと、やっと思えるようになりました。



結婚する事を決めた後、一度父に会いました。
二人で小学生ぶりに水族館に行って、イルカショーを観て、他愛のない話をしたり、今まで聞けなかった母の話をしたりしました。

私の知らない母は想像を絶するもので、今までの私に対する態度の全ての理由を理解しました。

母には、私が子どもの頃から関係のある男性がいました。
私が通っていた小児科のドクターです。
その関係は本当に私の小さい頃からだ、と父に聞かされた時、正直気持ちが悪くて悪寒がしました。

ある時から父と母はセックスレスになったそうですが、子どもも小さいし、と父はあまり気にしていなかったそう。
友達とでかけてくる!とでかける事が少しずつ増えていき、気づけば母はセックスレスのはずなのに避妊薬を飲み始め、出かけた日の洗濯カゴには見た事もない派手な下着が入っている。
これはおかしい、と思い始めた頃、相手の男性の妻から自宅に「おたくの奥さん浮気してますよ。勘弁してください」と電話があり、大事件となったようです。

思えば小さい頃、混雑した婦人科の待合室でひとり母を待っていた記憶があります。
小児科の受診に行く時はいつも決まって遅い時間で、先生とお話があるから、とひとり薄暗い待合室で忍たま乱太郎を読んでいた事も覚えています。

母から付き合っている人がいる、とは聞かされていましたが、まさかそれ程とは思いませんでした。
母の話では、一時期相手の奥さんが精神的におかしくなって相談を受けていた。向こうが離婚した後結婚しようかとも思ったけど、お互いの都合を考えてそうはならなかった。でも長い間関係は続けている。
ととても都合よく私に話してくれました。

自分のせいで家庭を壊したのによくもそんな事を自分の都合よく娘に言えたものだな、と感心します。
父と別居に至った理由も、聞けばあの人がひどい事をしたの!と被害者ヅラ。
こうなったことに、本気で申し訳なさも、罪悪感も、何も感じていないのかもしれません。
そうやって全てを犠牲にした割に、何十年も都合のいい女として終わってる彼女を、少し哀れに思います。

私が成人してからは、悪びれる様子もなく、その男性と泊りの旅行に行くようになりました。
母からキャリアメールの受信ができないから直せ、と言われて設定を色々いじくって受信ができているか確認している際に、その男性と頭が痛くなるような内容の卑猥なメールのやり取りをしているのを見てしまい、あまりの衝撃に誰にも言えなかった事を父に話したら
さすがの父も、50と60のおばさんおじさんがよくやるよなあ、と呆れていました。

他にも母の話はたくさん聞きました。

実は中卒で、本人のわがままで高校には行かなかったこと。
合唱団が彼女の全てだったこと。
通っていた美容院の美容師に一目惚れして、美容学校に入ったこと。
美容学校の講師のバイトをしていた父に出会い、熱烈アプローチして結婚に至ったこと。
ドクターと関係を持ち始めた頃、突然医療関係の資格を取ると言い出したこと。
祖母もそんな母を持て余していたこと。

母は私の前では全てが完璧な潔癖人間であるかのように振る舞って、私のことを汚れていて怠惰だと罵る事が好きでした。
はじめて彼氏ができた時も、友達とうまくいかず学校に行けなくなった時も、それで体調を崩した時も、たたひたすらに私を罵りました。
おそらく自分のコンプレックスの塊のような私を見て、単純に気に入らなかったのだと思います。
そして、そんな私を自分の分身に見たて、いいようにコントロールして、自分ができなかった事をさせるのが好きでした。
母にとって私は自分の欲を満たして慰めるお人形さんだったわけです。

母は母親になれなかったのだと思います。
いつまでも可愛い自分に固執して、自分のために周りを犠牲にして好き勝手して生きている。
完全なるお荷物な娘をいない方がマシくらいに思った時期は当然あると思います。
実際生まなければよかった、と言われた事もあります。

でも母も歳をとり、若い可愛いだけではやってられなくなります。
次第に母親としての世間体や役割にステータスとしての良さを感じ、自分は仕事も家庭も両立させて、恋人もいて、ハイブランドを身につける余裕もあって、娘に好きな事をさせて立派に育てあげた母親像に固執する。
そして今度は自分は親であるから偉いのだと言って、さらなるやりたい放題がはじまる。
子供の頃のように力で勝てなくなった彼女は、精神的にどんどん私を追い詰めていきました。

その結果、私は彼女から離れて行きました。
離れてよかったと心から思います。

いまだにこうやって彼女の事を思い出しては、ああじゃない、こうじゃないと思考を巡らせる事が時々あります。
結婚のことも連絡していないし、連絡する気もないですが、母親としての幸せを奪っている自分に多少の罪悪感を感じたりもします。
でも、母親として当たり前の幸せを享受できない一番の原因は本人にあり、完全に自業自得なので、もう気にしないことにしました。

怒鳴られたり、物を投げられたり、殴られたり、無視されたり
小さな頃から私にとってずっとそれが当たり前の日常でした。
自分はそうされても仕方のない何もできない出来損ないなんだと思っていました。

あの環境から離れて2年
怒鳴られるのも、物を投げられるのも、殴られるのも、無視されるのも
例え家族であろうとも、到底許されるものではなく、異常な日常だったとやっと気付きました。

幸せになんてなれるわけない、うまくいくわけがない

そう言われた二人の生活は実に穏やかなもので
静かに変わらないなんでもない日々が、私にとっては宝物です。

そしていつでもどんな時も、私の味方でいてくれる人がいるという事は、私にとっての一番の幸せです。

私と家族になってくれてありがとう。
これからもどうぞよろしく。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?