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バリ島ウブドを歩く㉙【プロの物乞い】

ウブドの街を歩いていると、物乞いに出くわす。私は3週間ウブドの街をほっつき歩いていたから、何度も物乞いに会う。

最初は気の毒だなと思う。二度三度会うと、どうやって暮らしているのかが気になる。トイレや風呂はどうしているのか、雨の日はどこで雨宿りするのだろう、とか。

何度も会っていると、物乞いたちの顔を覚える。片方の目を真っ赤にした面長の痩せた母親、二人の子どもを連れている血色の良い別の母親。

そして、ある日彼女たちは一緒にいて、友達同士なんだということを知った。そして、彼女たちは物乞いのプロだった。

私はオークランドやほかの国でもホームレスは見るけれども、彼らはあまり要求しない。道の片隅にカンカンを置いてひたすら待っている。または、インドでは子どもたちがどこからがワサワサと集まってきて、あからさまに手を差し出して ”あなたのものは私のもの” と言わんばかりだ。

しかし、ウブドの物乞いは違う。かの女たちは表現者だ。
通りゆく人を無差別に眺めるのではなく、ターゲットを絞ってこれはという人に対して渾身のゼスチャーをする。私は、いつも暇そうに歩いているので彼女たちの標的になる。

私を見つめる。片腕は子どもを抱き、もう片方の手で口元に食べ物を入れるようなしぐさをする。目を細めて、なんとも言えない甘い表情をしながら。しかし、これはポーズである。私が通り過ぎたとたんに表情はもとに戻る。

ある時、ウブド王宮の向かいのマーケットで数本のバナナを買って食べながら、ビニール袋をブラブラさせて歩いていた。二組の物乞いが歩道の端に座りおしゃべりをしていた。

私は、全くただの興味本位でかの女たちとお近づきになりたいと思った。しかし、ホームレスにお金を渡すのは良くない、というのはニュージーランドでは定説である。なぜなら、ニュージーランドのホームレスたちは、お金が入ると衣食住に使うのではなく、アルコールや薬物に使ってしまうからだ。
そこで、私はお金を渡すのは良くないと思い、持っていたバナナをあげることにした。残っていたバナナは一本しかなかった。

私は二人の母親に、子どもたちにバナナを上げてもいいかと聞くと、うんうんうなずいた。私は残っていたバナナを半分にして二人の子どもにあげた。
この時、バナナを渡すことには抵抗がなかった私だが、爪が真っ黒になった子供の手を見た時、生理的に ”触れたくない” と感じだ。
子どもの指に触れないようにしてバナナを半分ずつ与えると、子どもたちはおいしそうに食べていたが、食べるものに飢えていたと言えるほど貪り食うわけではなかった。

別の機会には、物乞いをしている母親と話したことがある。何が欲しいのかと聞いた。すると、食べ物ではなくてお金が欲しいと。
私は少しのお金を渡し、親子三人の写真を撮らせてもらった。4、5歳の女の子は笑顔でピースをし、哺乳瓶を持った男の子は母親に抱かれてぐずることはなく、そして何より明るい母親の顔。その一枚の写真は私のパソコンのファイルに保存している。

もう40年くらい前、マザーテレサが言っていた。最も哀れなのはインドの乞食ではなく、アメリカの孤独なホームレスだと。人の心を貶めるのは、華やかな生活をしている人々の中で、孤独に貧しい生活をしている人なのだという。

ウブドの街を歩きながら、私はそんな言葉を思い出していた。

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