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オリジナル漫画

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58才、アラ還で始めたマンガ描き。液タブ使うのも、悪戦苦闘しながら、一つ一つ習得。子供のころから、大好きだったマンガを、今こうして描いているなんて、夢みたい💛
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2021年9月の記事一覧

また、4コマ漫画を描き始めた

前回の投稿で引きこもりをやめた、と言いながら、 その後、オークランドがロックダウンに入ったので 強制的に引きこもり状態。 でも、これが快適なのです。もともと、人とのかかわりを強く求める方ではなかったので、ロックダウンは全く苦ではないし、むしろ安心して堂々と社会とかかわりのない生活ができるのです。 それも、経済的な保障があって、身体的にも自立しているから可能なのですが。 私の場合は 引きこもりと言っても夫と暮らしているので、完全なそれではないかもしれません。 ところで

60年前、布おむつの手洗いは普通だった。

家は核家族だったので、母の産後は父が家事全般をしていました。 父は、いつもは家事を一切しない人でしたから、洗濯をするのは 後にも先にも 母の2回の産後の時だけです。 姉は3月生まれ、私は2月生まれだったので、北海道ではまだ冬。 農作業が まだ始まっていない時期だったので、できたことかもしれません。 父は 姉が生まれた時に、洗濯機を買いました。 1962年、2層式の洗濯機が発売されたばかりの時です。 父は オムツを手洗いするのが どうしても嫌だったのでしょう。 その後は

子供の世界

この 姉の行動を もう何十年も前に 母が私に話してくれた。 それを私が覚えているのは、その時 母が本当に感心していたから。 きっと、子供は何気なくいろんな行動をとっていて、そのほとんどは誰にも気づかれず、本人も意識しないままに 大人になっていく。 気づかれなかったことはそのままに、気づいてくれた人がいて、それを認めてもらえた時は それとして。 親が子供にしてあげられることって、小さな出来事の中で、一つ一つ 気づいてあげること、認めてあげることくらいなのかもしれない。

”大変だね~”で すべてがすまされた時代 昭和

多少の曲解もあるかもしれないけれども、私が母から聞いた当時の子育て。 2才の子供と 生まれたばかりの赤ちゃんが留守番をしているのは、本当かなという気もするけれども。 最近は育児放棄とか、パワハラとか、そういったことが意識化され、法的にも処罰の対象になるが、当時はそんな時代ではなかった。 私の両親の場合は、2,3時間ごとに様子を見に家に戻っていたので、育児放棄とは言えないかもしれないけれど、けっこう危険はあっただろうと想像する。 それでも私と姉は、大けがもせず大きく

食べ物は 母の愛の表現

※ 約60年前の普段着の着物。帯締めは使わないですね。描いてから気づきました。後日訂正します。記憶で描いているものですから、いろんな箇所で間違いもあるかもしれません。ご容赦を😅 例えば、子供の喜ぶ顔を想像するとき。おいしそうに、何かをたべているところだったりします。 当時(50~60年前)は、今よりも食べるものは貴重だったはずですから、卵一つ、野菜一つに思い入れがあったのではないかと思います。お金も、物も貴重だった時代に、身近にあるものを、ちょっと分けてあげる。もら

懐かしメニュー

私の記憶では、父が台所に立っているのを見たことがない。 昭和30年代なので、それが普通といえば 普通だったのかもしれない。 うちは農家だったので、両親は 同じ時間 外で働く。 父が昼寝したり、テレビを見ている時間に 母が家事のすべてをやっていた。不公平だと、子供ながらに思ったこともある。 ただ、 母は 姉と私の出産のとき、里帰りをせず、退院後すぐに自宅に戻った。当然 父が炊事、洗濯など 最低限の家事は しなければならなかった。(核家族で、祖父母は同居していない) 私に

60年前 北海道の農家でこんな生活。

この古い家に 私は4才までしか住んでいないので、ほとんど記憶がありません。この話は、最近母から聞いたものです。 私が4歳の時に、両親は小さな2階建ての家を建てましたが、その家も便所は汲み取り。家の中にネズミの巣はなかったけれど、押入れの中にネズミを見つけて、母がホウキを持って追っかけていたのを覚えています。 そして、私にとっても それが普通の生活だったのです。ここに、大変さとか、不遇だったという感覚はありません。 私の記憶の中の この小さな2階建ての家は 明るいイメ

なんでもやってみることが許された時代、昭和

昭和という時代は、生活も考え方も発展途上だったと思います。 何しろ 戦後10~20年で、新しい文化が怒涛のようになだれ込み、そんな状況の中で、人はトライ アンド エラー、試行錯誤しながら生きてきました。 北海道の 片隅で生きていた私たち家族も例外ではありません。次々と開発される生活に便利な器具を手に入れました。この場合洗濯機。特に父は新しもの好きでしたから。  電気は通っていたので、洗濯機は使うことができた。でも、排水設備は整っていない状態。そして、4年後には小さな家

それでも、風呂にはいるのだ!

昭和30年代当時、北海道の私の親戚では 五右衛門ぶろが主流。このお風呂は母屋とは別の 小さな小屋に中にありました。私が4歳の時に小さく簡素な家を新築するのですが、その時まで使っていました。 冬なんて、どうやって子供を風呂に入れていたんだろう。氷点下20度になるのに。 私の記憶する限り、両親は風呂に入らない日は一日もありませんでした。きれい好きだったし、相当風呂好きだったんでしょう。でも、五右衛門ぶろを使っていた時代、気温マイナスの厳寒期、子供も小さいし、さすがに入浴回

五右衛門風呂は、ちょっと前のスタイル。実は、そんなに昔じゃない。

記憶って、思い出すと それが生々しく頭の中に再現されるものです。 このお風呂も、そんな感じ。 薄暗い電球の下で、湯気が立ってる。周りは、暗くてよく見えないけれども、天井がなくてそのまま屋根の裏が見えていました。クモの巣やススが あるはずだけど、それがはっきりと見えないので よけいにぞぞっ~とする。 祖母は、当たり前のように淡々とお風呂の準備をしていました。この時は、水は蛇口にホースをつないで風呂釜に。井戸からの水汲みよりは、ぜんぜん楽なものでしょう。 当時の当たり前

今も昔も 園児服と黄色い帽子は変わらない 不思議。

北海道の小さな町の町立保育園。ごくごく一般的な保育園だったと思います。その当時もこんなスタイルで、お弁当と出席帳を持って。 私は最近20年は日本に住んでいないので、詳しいことはわからないけれども、ネットで見た限りでは、今も、このスモック型の園児服と、黄色い帽子は現役なんですね😊 たまたまバス停が自宅のそばにあったので、そこでバスに乗り、市街地区にある保育園の最寄りのバス停で下りる。そのバス停に保育園の先生が迎えに来ていました。園長先生が迎えに来ていたこともあったような

思い出は、そっとふれずに そのままに

アルバムに残っている、幼稚園のクラス写真。大きな目の彼女は クラスの中でもひときわ目立っています。10年後、15歳の時に見かけた時も 大きなキラキラした目は昔と変わらず、見てすぐにわわかりました。 5才から、15才までの10年間は、見た目には 大きく変化しますが、案外その人の特徴は変わらないものです。彼女はエクボもあって、なおさら可愛い印象がありました。当時、エクボはかわいい子の代名詞。 私は、見た瞬間に、彼女だと気づくのですが、声をかけるのは 気後れします。彼女が私

納豆弁当は、もしかして 母の愛だったかもしれない....

小学生になってからの記憶は、その時の感情も含めて それなりに残っていますが、幼稚園のことは断片的になります。 なので、納豆弁当以外の お弁当については何も覚えていません。梅干し弁当もあったかもしれないし、たくあん弁当とか ゴマおにぎりだけというこもあったかもしれません。 ましてや、ほかの子が何を食べていたかなんて、まったくわかりません。 考えてみると、家はコメ農家でしたから、コメと野菜には不自由しなかったわけです。でも、納豆は買っていたので(わらに包まれたやつ)、も

50年前、実は、今より値段が高いものもたくさんあった。

50年前、自家用車はもう使っていましたが、 街への買い物(食料)は、10日に一回がせいぜい。 一か月 行かないことも。 コメ農家だったのでコメと野菜は自給できましたから。 近所、といっても 歩いて5分かかっていたと思いますが、 養鶏している農家があり、時々 姉と二人で とぼとぼと農村道を歩きながら、卵を買いに。 200円でカゴいっぱいの不良品の卵。 私のかすかな記憶では、”今日は卵ないのよ”と 言われたことも。 当時の物価は、物によっては今より高いものもありまし