さんといちとご

なんとなく災害のはなしをしたくなって、でもきっと明日になったらそういうのが溢れてしまって、自分もただそういう流れに乗ってしまうだけのものになってしまうんだろうなあ、と思った。ので、今日書こうと思った。まあ多分、今日だろうと明日だろうと明後日だろうと大して変わりはしないのだ。けれども普段からあまり清く正しく生きてきてはいないなあ、という自覚があるため、今日筆をとっている。いつもは下書きしてからこういうところに投稿するのだけれど、まあ途中で消えたらそれまで、と思って直打ちしている。まあ自動保存みたいなのついてるみたいだけど。最近のやつは優しいなあ。昨日うっかりWordで2000字ほどふっ飛ばしたあとなのでチベットスナギツネみたいな顔にしかならない。
災害、というか震災、そういうものは結構身近にあったのだと思う。身近にありすぎて、他の自治体(自治体で良いのだろうか)がそこまで避難訓練だとか防災グッズを用意していないことを知った時にはすごく驚いた。特に東日本の時は東京に出たばかりだったので、まあ避難するにしても近くに学校があるから、最悪そこに行けば良いだろう、と思っていたのに、あの揺れのあとでも誰も外に出ていかなかった。驚いた。確かに特に家のフレーム(で良いのかもう分からないから、このあとの言葉はテンションで読んで欲しいと思う)が歪んだような感じもなかったし、扉は開くし窓も割れなかったし、棚も倒れていない。避難する理由もなかったのかもしれないが。実家のある場所よりもずっと海抜が低くて、というか確かほぼゼロで、どう考えても津波が来たら終わりだろう、と思っていたのもあって。誰も高いところに行かないことも不思議に思った。実際住んでいた場所にはそういうことは起こらなかったが、あれで良かったとは思わない。
実家のある場所はいわゆる高台で、特別津波に備えた何かをしていた訳ではないけれど、その程度の知識はあった。でも、その程度だったんだな、とあとから中継される映像を見て思った。割合ああいう映像でダメージを食らうタイプであることを自覚はしていたが、どうしても見なくてはいけない、という強迫観念じみたものにかられていたように思う。今なら誰かに引っ剥がしてやってくれ、と言うだろうが、あいにくその時は一人暮らしだった。同じ故郷から出てきた仲間で集まって孤独を分け合うようなこともしたし、本当に一人だった訳ではないけれど、多分あの頃の自分を引っ剥がしてやれる人間はいないのだと思う。けれど、見ない方が良かったか、と問われるとそれに頷くことは出来ない。ダメージを食らっても、知っておくべきことがあったと思っている。それはそれとして、あれからよくテロップで出るようになった「ショッキングな映像が~」みたいなやつ、あれは徹底してくれるときっと優しいのだろうな、と思う。
いろいろあって実家に戻ることがあって、ハザードマップを見直した。住んでいる場所はやっぱり津波などは想定されないだろう、と思う。近くに活火山があって恐らく地震があれば連動するか、火山が噴火する方が先かもしれないが、そういうことがあってあの辺りがてんやわんやになることは言われていたし、今も想定として変わっていない。火砕流は家までは来ないようだった、これは地形的に家まで来る間に窪地があるのでそこで留まるだろう、という話だった。でも、それだけだ。窪地の部分には友人の家もあれば家族の職場もある。知っている風景はめちゃくちゃになるだろう。でも、それを止めることは出来ないのだ。人間は未だ地震を制御出来ないし、予測も頑張ってはいるのだろうがなかなか下々まで伝わってこない。それよりも身近に事件がたくさんあるから、あるかもしれない未来の話は後回しにされてしまうのかもしれない。津波や火砕流は来ないと言ったが、火山灰は風向きによるだろうし、川の決壊やら土砂崩れやら、断層がズレることによる孤立化だとか、まあ考えだしたらきりがない場所に住んでいる。そもそも自然のことなのだ、止めようなんて考えが烏滸がましいという考えはあって、でも、だからと言ってのうのうと受け入れることも出来ない、というような心地だった。
震度五だの六だの七だのをそれでも経験してきている方だと思う。というか、今の日本でどれも経験していないという人間の方が少ないとは思うけれど。ただ運がよくて、そのどれもで大した被害もなく生きているというだけの話だ。ローカル線は地震よりも雨風でよく止まるし、うっかり鹿と衝突したりする。そんなことを考えながら、きっと何かどうしようもないものによって自分が死ぬのであれば、それは災害なのだろう、と思った。普段から希死念慮じみたものと共存しているけれど、これは希死念慮だとかそういうものではなく、確信に近いものなのだと思う。起こる起こると言われて未だ起こっていない地震が、生きている間に起きたのなら、それには必死で抗うだろうし、避難もするし、何なら声だって上げるだろう。でも、何か、予感がしてしまっている。それが恐怖であるのか、未だよく分からないままでいるけれど、そういうことが起こったらちゃんと、さいごまで悔いのないように走り回りたいと思う。
つまりそれまで、よく言っている「うっかり雨の日に歩道橋の階段で滑って転んで死にそう」というのには注意しなければならない、ということだった。馬鹿馬鹿しい話だとは思うだろうが、どうにもそうなるような気がしてならなかったのだから仕方ない。そろそろまとまりがなくなって来たのでこれで終わりにしようと思う。

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