評価というものについてもにょってみた。
子供のころから学校の先生に通信簿ということで学力を親に通知、あるいは通信されていました。英語の成績が中学高校を通してあひる(高校は10段階になったのに!)であったことはいい思い出です。
さて、私たちは、子供のころから、よほどのことがない限り、「定期的に誰かに学力ないしは、仕事のできを評価されて」その上の学校に進んだり給料をもらっているわけです。
まあ今、私も大体よい大人になりまして、「評価をする」立場になっているわけであります。
この評価は「給料をあげる・あげない理由があるか、さげる・さげない理由はあるか」を決める給与査定用の評価であって。その人がいかにすばらしい人間であるかどうか、ということを評価するわけでもなければ、その人がすばらしい実力持っているかどうかとか、どのぐらい業務知識があるか、なんてことを「測定する」評価ではないわけです。その「人となり」を評価するなんておこがましいことは会社の上司ごときではできないですよね。
とまずは言い切っておきます。
よく聞く言葉をあげておきますね。
「あなたはこの技術を持っていないのによく私を評価できますね(できてないでしょ?)」
とかとか
「あなたは何をしているか正確に理解できていないのによく評価できますね(できてないでしょ?)」
です。
「同じ経験」「同じプロセス」「同じ理解」しなければ評価ができないと思っているので、絶対的な評価者(神)はすべてにおいて自分を超越してなければ「私ごときを評価するなぞゆるしませんよ」的思考論者。
いるんです。
私も馬鹿ではないので、「主婦に工場長の評価が正確にできますか?」とか。「シェフに政治家の評価が正確にできますか?」とかいわれてもそれは無理だろなとおもいます。
ただ、半期の振り返りとして7時間×120日(20日×6ヶ月)見てたら、その人が会社に、国に貢献しているかどうかはわかると思う。いや、わからなければならないですし、それは可能なスキルをもったひとが評価者になるわけです(と信じている・・ときどき違う人もおるけど)。
そこに集中して評価期間、相手をみつめているのが評価者の仕事です。
基盤としての評価は、会社として給料に値するか否かであり、その指標としてはいくつか持っているし、種類はたくさんあります。上のコメントの中の技術、とかもひとつの要素ではあるんですよね。
たとえば、網羅性はまったく考えずに洗い出すとこんなかんじで。
・専門技術の習得と品質と伝授
-最近トレンドの習得
-取り組み
ー伝播・拡散
-技術の拡大習得
・組織・会社・社会への貢献度
-売り上げ
-プロジェクトの円滑な推進
-チームビルディング
-雰囲気
-教育
・組織・会社の忠誠度
その他、会社として大事にしたいことはいくらでもあるでしょう。それぞれが考慮ポイントにはなるとおもいます。
中には習熟度を測定する難易度が個々において高いポイントが混ざります。
たとえば伝統芸能の習得とか(仕事であるかしらんけど)。そういうものの「評価してほしい!優先順位が高い傾向を持っている人」が最初のせりふをよく言うような気がします。
ビジネスサイドからみた時、実はそこを「正確に評価すること」を評価者には会社からオーダーとして出ていないのを知ってるのでしょうか。
簡単にいってしまうと、会社がとくに評価したいポイントと、会社にとくに評価されたいポイントがズレしてしまっているということです。
このズレがモチベーションダウンにつながることが多く、世のマネージャーはとかく配慮をしたり、ある程度そういったプロセス部分や過程部分を評価することをしているはずです。
ですが、最終的には、会社の最大目的である「収益化」ことにいかに早く結びついているかのほうが、評価比重が高いというのは理解しているはずです。
しててくんないと困るw
どんな人でも評価できる絶対的な評価の仕組みを作ってください。
といわれたら、「給料以上の売り上げを上げた人」でいいと思うんですよね。
営利目的な会社にいるんだから。もしくは、給料以上の売り上げをあげたチームをサポートした人、でもいい。その人にサポートされたら、ぼくが君の分まで稼ぐよ。っていう人と働いてパフォーマンスが出てるならそれが一番シンプル。商売の基本だしね。伝統芸能をいい感じで習得するだけ、で利益になるならそれでよいのですが、ビジネスではそうじゃないことが多いはず。
だから、評価者も迷うし評価される人も要望言うわけだけど、この原則の方が強いってことを忘れてるんじゃないかとおもう。
評価の網羅性とか、評価の正確性って単なるパフォーマンストークだと思ってるんですよね。だから本当は必要ないと思ってるんです。会社にとって都合がよければ給料はあがるし、会社にとって都合が悪ければ給料はあがらない。
ただそれだと、やりがい詐欺とかとか、モチベーション3.0とか色々あって、そんな褒めてもらえない会社、「ほめて伸ばす世界」「傷つけないのが正義」「多様性」「人を受け入れる勇気」なんて世の中の流れ的に生き残れない。
であれば、大体のトレンドとして、採用する方が無難ですよね。
給料の上げ下げをうまいこと伝え、納得性を持たせるために配慮された評価制度というのをある程度作る。そして原理原則だけではないということをアピールするわけです。
もちろん、自分はそれを利用させてもらって、給料へのプレゼンテーションを上司にもするし、そういう原則で評価を考えていたりします。だから、原理原則だけで動いていないことは、とてもいいことだとおもいますw
ただ、評価は「網羅性と正確性」を持たなければ完全ではない、という考え方は、それは会社の給与査定としての評価、ではなくて、なんていうか、その人の問診表のような評価を期待している気がします。健康診断のような。それと混同しているのがよくないなぁと思うわけです。
それって「会社の評価」ではなくて「その人の評価」であって。
現状の会社の評価といわれているものは、その二つが行われているのは確かなんだけど、「二つある」ということが事実である割に、認識が薄いんですよね。
自分が評価されないのは、評価が間違っているからだという承認欲求の強さからくる叫び声を聞くたびに、「何が評価されてるか」の理解が間違っているよなぁと思うのだけれども、それを言ってしまうと会社としての思いやり評価が水の泡になってしまうわけですし、自分も恩恵を味わっている以上前面否定はできず。なんとももにょるわけです。
もにょもにょ(使い方絶対間違ってるよね・・・)
画像及びヘッダ画像は
ぱくたそ(www.pakutaso.com)さんよりお借りしました。
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