見出し画像

最後に行ったライブから160日が経った

最後に行ったライブから160日が経った。

まだ肌寒い2月の末に渋谷で行われたそのライブは入口でのアルコール消毒、そして、観客のマスクの着用が義務づけられていた。そのため、観客のほぼ全員がTシャツ1枚にマスクという出立で、ライブ開始前の高揚感とは全く別の緊張感のようなものがライブハウス全体に満たされていた。

2月末の段階でいくつかのライブはすでに自粛要請に従い、中止や延期が発表されはじめていた。世間からのライブハウスへの風当たりも強くなりはじめていた。そんな逆風の中で開催されたこのライブはチケットの払い戻しを前提としつつ、健康で参加できる人だけが検温の上で参加という厳戒態勢が敷かれていた。厳戒態勢の中で音楽を楽しむという異常さにどこかみなソワソワしていた。

そこは疑いようもないディストピアだった。ただ、「1984」のような超監視社会でもなければ、未知の宇宙人やサメが攻めてくるようなパニック映画とも違う、静かなディストピアだった。


ライブまであと20分。入口で600円と引き換えに得た、今時RPGにも出てこないようなコインを片手にバーカウンターに向かう。引き換えにもらったジントニックは、薄すぎて二口目にはなんの飲み物を頼んだのかさえ忘れてしまった。

ライブまであと15分。急いで飲み干してフロアに戻る。狭い個室が1つしかないトイレに並ぶ行列を横目に、ドリンク交換は終演後にすればよかったかなと若干後悔しつつ、いそいそとフロアに向かう。

ライブまであと10分。ステージの下手側、前から4列目くらいの位置を確保する。1列前には、マスクが大きすぎてほぼ顔がマスクの女性がうつむきながらスマホをいじっている。隣の大学生風の男性は焦点があまり定まらない顔をしてツムツムをしている。

ライブまであと5分。アナウンスが流れる。「公演中、体調が悪化した方はすぐにスタッフへお声がけください」。そんな普段と変わらないアナウンスでさえも、この状況だと全く違って聞こえる。

オンタイム。普段と変わらないSEとともにアーティストが入場しライブが始まる。1曲目の1音目が鳴った瞬間、今までのディストピア感が全て消え、いつものライブハウスになった。正直、ヘッドホンで聴いた方が音質がいいなとも思いつつ、なぜこれほどまでにライブはテンションが上がるのだろうか。異常事態の中で、いつも通り盛り上がる気持ちとは裏腹にそんなことを冷静に考えていた。

1曲、また1曲とライブハウスの空間に楽曲が投下されていく。徐々に激しくなるモッシュピット。そこには顔の半分がマスクだった彼女も、ツムツムの彼もステージを楽しそうに、嬉しそうにみている。

そして、ライブは終わり、フロアが明るくなる。マスクとTシャツというほんの数時間前までと同じ出立の観客がやや早足で帰宅をはじめる。ライブが無事に終わった安心感に包まれつつも、徐々に空っぽになっていくいつも通りのライブハウスがそこにはあった。

------------------

ライブへ行かなくなってはや160日。「ライブがないと生きていけない」と言っていた人たちはちゃんと生きてるのだろうか。たぶん大丈夫だ。ライブにいけなくなっても、僕らは生きていける。そんなことを証明してしまった160日だったような気がする。

デロリアンもドクもいない2020年の世界において、日常は不可逆だ。コロナの以前/以後と考えることは簡単だが、そもそも不可逆である以上、コロナには関係なく、どんな瞬間であれ過去と同じ状況に戻ることはあり得ない。ただ、「あの頃」を思い出して、何が良かったのか、何が悪かったのか、そういうことを丁寧に振り返ることこそ、今、必要とされることなのではないだろうか? あの瞬間に感じた感情をまだギリギリ思い出せるうちに、あの瞬間に確実にあった「記憶」として思い出せるうちに。

------------------

ライブが終わり街へ出ると、ライブハウスに入る前は明るかった空も、薄暗くなり、ライブハウスの中と同じくらいの明るさになっていた。寒空でも星が一つも見えない渋谷の街を歩きながら、さっきまでのライブハウスの七色の明かりを思い出していた。もしかしたら、僕がライブハウスの好きなところは音の響き方でも設備の綺麗さでもなく、あのチープな照明の輝きなのかもしれないな。そんなことを考えながら。

〈2020.8.8 〉

サポートを元に新しい世界を開拓して感想書きます