千盤一夜物語(7)

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今日はセル。基本的に、何を聴くかは決めず、ラックにあるものを手に取るという形で進める中で、セルの1枚目であるのにもかかわらず、地味な1枚。筋金入りのセル・ファンからは、これじゃないだろうとお叱りを受けそうであるが、仕方ない。手に取ったから。

ヒンデミット⇒ウォルトンのヒンデミットの主題による変奏曲⇒で、ウォルトンの第2交響曲というコンセプトの1枚ながら、とても地味。しかし、このヒンデミットは良い。

高校生の頃だったか、ブロムシュテットが好きで、ブロムシュテットのヒンデミットが気に入って聴いていたのを思い出す。あれはサンフランシスコ響だったか。まさか、最長老指揮者となって今でも活躍を聴けるとは…。

セルは、自分の楽器にしたクリーブランド管をしっかり鳴らしつつ、枠からはみ出ないで聴かせる。曲もきちんと書かれているからこそ、きちんとやってくれると、いい曲に聴こえるのである。下手な「解釈」なぞを入れると、結局、「いい曲じゃん」と思えない。この「いい曲じゃん」と思わせることの難しさと大切さは、ゲテモノを探していた20代ではわからなかった。つまり、年を取ってオーマンディの凄さがわかるということでもあり、セルの偉大さもわかろうというものである。「曲を聴かせたように思わせる演奏をする」のは、至難の業なのであろう。セル印!という刻印はしないものの、鍛えに鍛え上げた自分の楽器で自分のやりたい音楽を再生できているセルは、やはり稀代の名指揮者である。これはライナーやオーマンディに共通して感じるものでもある。たまたま東欧系の特質なのだろうかか?1950年代から60年代、70年代頭辺りは、そういう時代なのか。これがショルティになると、経済が無限に大きくなっていくことを信じて疑わない人々によって、大きいことは良いことだ的な時代となり、超即物的なオーケストラ音響(これはこれで金管大好き人間にはとても面白い!のは間違いないが、一生聴き続けるがどうかは別問題だし、例えば入院したときに聴くかななど考えてしまう)になっていくことを考えると、時代の要請によってオーケストラの音も変化するという当たり前の事実を考えてしまう。すべて昔が良かったとはとても思えないし、ダメなものはいつの時代もダメなのだろうが、いまだに源氏物語が読まれるように、いい演奏は良い指揮者の音作りや解釈と共に生き残るということを改めて思う。

クリーブランド管はしっかりと達者な管楽器がいて、ヒンデミットの筆致をすっきりと音にしていつつも、微温的でないので、聴いていて面白い。いい仕事をする打楽器は、名オーケストラには必須要素だと改めて実感もするし、金管の充実度も安心。ともすると、小さくまとまりがち=しっかり書き込まれているヒンデミットだからこそ、このような演奏はいい。心技体の合致を見るようで、ヒンデミットの演奏だけでこのCDの価値はある。

というか、ウォルトンの印象が薄いのは、イギリス音楽に昏いせいもあるように思うが、「ウォルトンらしい音は随所にするけれど、この曲でなくてはいけない理由が今のところ見つからない」という感じか。吹奏楽ファンにはクラシック音楽の王道ではない、「まあまあ有名な作曲家の無名な作品の有名な編曲モノ」という厄介なジャンルがあるが、ウォルトンもそういう作品がある。と、書きつつ、「あ、あれは、M.アーノルドだったか」と思い直した。「スピットファイア」は戴冠式行進曲「王冠」のウォルトンで、映画「サウンドバリアー」とか「第六の幸福をもたらす宿(何とかならないのだろうか、この通称)」はアーノルドか。

ウォルトンの音は、復古的な音作りの中で聴こえる音のように思うので、J.ウィリアムズの映画音楽にもその断片が聴こえるように思う。そのような影響も考えると、近現代イギリスを代表する作曲家なのだろう。ウォルトンが書いた映画音楽で思い出したのは、G.ハミルトン監督の『空軍大戦略』。いい映画だったなぁと思いだせるのは、実はウォルトンの映画音楽も奏功していたに違いない。


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