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日本の歴史に登場した天皇の人物像に迫る!天皇小史から見る共通することとは?(奈良・平安時代篇)

天皇の歴史は大きく、「神話」「伝承」「歴史」で分けられ、「歴史」はさらに古代、中世、近世、近代に分類されます。過去の記事は下記のリンクよりお読みいただけます。

ここでは「古代」のうち「奈良時代」と「平安時代」の天皇について、どのような人物がいて特に重要な先例に何があったかを中心にご紹介します。


古代の天皇

奈良時代の天皇

奈良時代は、和銅3(710)年の平城京遷都から、延暦13(794)年に平安京に遷都されるまでの時代です。奈良時代の天皇は元明天皇から光仁天皇までが含まれます。

元正女帝

元正女帝は、草壁皇子と元明女帝の長女で、氷高(または日高(ひだか)・新家(にいのみ))内親王という名です。元正女帝が女系の天皇の先例とされることがあります。

律令の継嗣令第1条には、「天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること(女帝の子もまた同じ)」とあります。元正女帝は元明女帝の子であるため、女系の天皇の先例とみなされることもあるでしょう。しかし、継嗣令の第4条には「王が親王を娶ること、臣が五世の王を娶るのを許可すること。ただし、五世の王は、親王を娶ることはできない。」と記されています。これにより、五世の王を除くと皇族同士の婚姻が前提となっています。

また、その後の歴史の中で、女帝と婚姻して皇配となった人の子供、すなわち女帝の子が皇族となる先例は作られませんでした。つまり、継嗣令をもって女系の天皇の先例にすることは難しいといえます。

聖武天皇

聖武天皇は、文武天皇と藤原宮子の第一皇子で、首(おびと)皇子という名です。聖武天皇の治世では、神亀6(729)年の長屋王の変や天平9(737)年の天然痘の大流行などの凶事がありましたが、、仏教に深く帰依し、国ごとに国分寺や国分尼寺を建立する詔、東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出すなど、都を仏都に位置づけようとしました。

また、長屋王は藤原不比等の娘である藤原光明子に立后に反対していましたが、長屋王の変によって自害したため、天平元(729)年8月に藤原光明子を皇后にする詔が発せられました。

天つ位に嗣ぎ坐すべき次(つぎて)と為て皇太子侍りつ。是に由りて其のははと在らす藤原夫人を皇后と定め賜ふ

皇族以外から立后された初例です。なお、仁徳天皇の皇后である磐之媛命に先例があるため、その先例を元にして立后された可能性もありますが、これ伝承に過ぎないため、藤原光明子が皇族以外の身分から皇后となった初例とされます。その後、藤原氏の子女をはじめ、皇族以外の人が皇后となる先例になりました。また、光明皇后は仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うための施設として「悲田院」や医療施設である「施薬院」を設立し、慈善活動も行っています。

聖武天皇に戻ると、天平勝宝元(749)年正月に、行基を導師として出家しました。在位中に出家した天皇の初例であり、その後を見てもこの一例のみで、さらに皇位にも留まっています。

そして、天武皇統を維持するための皇子が誕生せず、娘の阿倍内親王(後の孝謙天皇)に譲位しました。なお、阿倍内親王は女性で皇太子となった初例であり、これもその後を見てもこの一例のみです。

聖武天皇は譲位後、太上天皇となり、男性の天皇が譲位して太上天皇となった初例となります。

称徳女帝

称徳女帝は、聖武天皇と光明皇后の皇女で、阿倍皇女という名です。一度目は孝謙女帝として即位し、その後、重祚して称徳女帝となった女性天皇です。称徳女帝の治世に、皇室簒奪を企てたとされる弓削道鏡による道鏡事件が起こりました。

大宰府の主神(かんづかさ)である中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)は、道鏡が皇位につくべきだという宇佐八幡の託宣を朝廷に報告します。その真偽を確かめるために、和気清麻呂が勅使として宇佐八幡宮に派遣されました。そこで、託宣は虚偽あると確認され、神護景雲3(769)年7月11日に和気清麻呂が託宣を受けました。

我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし。

その後、道鏡を皇位につけようと考えていた称徳女帝は、和気清麻呂を因幡員外介(いなばのいんげのすけ)に左遷し、さらに名前を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に改名させた上、大隅国(現在の鹿児島県)に配流しました。しかし、称徳女帝の崩御後、道鏡は後ろ盾を失い、罪に問われて下野国の薬師寺に左遷され、大隅国に配流された和気清麻呂は呼び戻されて入京を許されることになりました。

平安時代の天皇

平安時代は、延暦13(794)年の平安京遷都から、建久3(1192)年の源頼朝が征夷大将軍に就任して鎌倉幕府が形式的に成立するまでの時代です。平安時代の天皇は桓武天皇から安徳天皇までが含まれます。

桓武天皇

桓武天皇は、天智天皇の孫の光仁天皇と高野新笠(たかののにいがさ)妃の皇子で、山部王という名です。生母の高野新笠妃は、百済の武寧王の子孫です。

桓武天皇の治世において、平城京から平安京に遷都し、その後、明治になるまでの都となりました。また、蝦夷や東北地方の平定のために、征夷大将軍として大伴弟麻呂を派遣し、副将軍の坂上田村麻呂が大きな戦果を挙げました。

延暦十三年(七九四)正月朔(一日)条 征夷大将軍大伴弟麿に節刀を賜う。

これは、征夷大将軍の初例です。その後、蝦夷征討の任務を坂上田村麻呂に代わり、東北が平定されました。

延暦十六年(七九七)十一月五日条 従四位下坂上大宿禰田村麻呂を征夷大将軍と為す。

桓武天皇以前の天皇は、践祚がなく即位のみでしたが、桓武天皇から践祚を経て即位します。践祚がない時代には、殯(もがり)などの葬送儀礼が長期間にわたって行われており、それが終わるまで即位することができませんでした。先代の天皇の崩御から新帝即位までの期間が長引くことがあり、政争などが発生することもあるため、新帝を確定させるために践祚と即位が分離されたと考えられています。

天皇としての位(スメロキ)は新帝に受け継がれるため、天皇(スメラミコト)という人が死を迎えても、位としての天皇は死ぬことがないという意味です。イギリスにも「国王は死なず(the king never dies)という言葉があり、国王が崩御するとすぐに王位継承者が即位します。桓武天皇の治世から、イギリスの「国王は死なず(the king never dies)」に類似した考え方が定着することになります。

嵯峨天皇

嵯峨天皇は、桓武天皇と皇后藤原乙牟漏(おとむろ)のの第二皇子で、神野(かみの)という名です。南北朝時代に北畠親房が記した神皇正統記において、特筆される天皇でもあります。

嵯峨天皇の治世では、藤原園人、藤原冬嗣、藤原緒嗣らが政治を担当し、嵯峨天皇はいわば「君臨すれども統治せず」を体現しました。その結果、政局が安定し、初期の平安文化が花開いた平和な時代となりました。この時代は後に「弘仁の治」と呼ばれます。また、朝廷では怨霊への恐れから、保元の乱の時期まで皇族や貴族に対する死刑が廃止されました。

清和天皇

清和天皇は、文徳天皇と藤原良房の娘である女御明子の第四皇子で、惟仁(これひと)という名です。わずか9歳で即位したため、外祖父である藤原良房が太政大臣として執政を行いました。これは幼帝の初例です。また、藤原良房が摂政と呼ばれるようになったのは、貞観8(866)年8月19日に、摂政宣下の勅が出されたことによります。

太政大臣に勅(みことのり)す。天下の政と摂り行えと。

摂政宣下によって、藤原良房が臣下として初めて摂政に任命されました。これは人臣摂政の初例であり、清和天皇が元服するまでの期間、天皇を後見する役割を担いました。

この時から、藤原北家の一族が后を入内させて、天皇とのミウチ関係を築くことで、外舅や外祖父、外叔父として摂政や関白、内覧、准摂政として政治の実権を握るようになりました。摂関政治の始まりです。

光孝天皇

光孝天皇は、仁明天皇と藤原総継(ふさつぐ)の娘である女御沢子の第三皇子で、時康という名です。

先帝の陽成天皇の時代に摂政を務めていた藤原基経は、陽成天皇の退位に伴い、皇位継承者を選定し、時康親王を擁立して即位させました。即位後の元慶8(884)年6月5日、藤原基経へ宣命を下します。

今日より官庁に坐して、就て万政を領り行ひ、入りては朕の身を輔げ、出ては百官を統ぶべし。応に奏すべきの事、応に下すべきの事、必ず先づ諮稟せよ。朕将に垂摸して戌を仰がむ。

この宣命には先例がなく、また摂政とは異なり、政治に関する新たな職務を委任したものとされているため、関白の初例とされています。

宇多天皇

宇多天皇は、光孝天皇と班子(はんし)女王の第七皇子で、定省(さだみ)という名です。定省親王は、皇位継承のルールとは?現在まで続く皇統の謎に迫るでも取り上げたように、臣籍降下して源定省として源氏の姓を賜ることになりました。しかし、仁和3(887)年に光孝天皇が病気になった際、藤原基経は皇位継承者を選定し、臣籍降下していた源定省を皇籍復帰させ、親王そして皇太子にしました。これは元皇族が皇籍復帰して天皇になった先例です。

宇多天皇即位後の仁和3(887)年11月、藤原基経へ詔を下します。

其万機巨細、百官を己に惣べ、皆太政大臣に関(あずか)り白(もう)し、然る後奏下、一に旧事(元慶八年)の如くせよ。

詔に見られる「関(あずか)り白(もう)す」は関白の語源であり、関白という語の初例とされています。起源は『漢書』です。

その後、宇多天皇と藤原基経の間に阿衡の紛議が起こりましたが、翌年には解決し、仁和4(888)年に宣命を下しました。

今より以後、衆務を輔け行ひ、百官を統べ賜へ。応(まさ)に奏すべきの事、応に下すべきの事、先の如く(元慶八年)諮稟(しりん)せよ。朕将に垂拱(すいきょう)して成を仰がむ。

関白の成立過程には諸説ありますが、最初に関白の地位に就いたのは藤原基経です。藤原基経の死後、宇多天皇が親政を行い、政治改革が進められました。この時期は後に寛平の治と呼ばれるようになりました。

政治改革を進めるために、宇多天皇は菅原道真を登用します。菅原道真は皇位継承問題についても意見を述べることが許されるなど、宇多天皇との信頼関係が厚かった人物です。また、宇多天皇の治世の下で、最後の遣唐使が派遣され、その後、遣唐使制度の廃止が決定されました。

醍醐天皇

醍醐天皇は、宇多天皇と藤原胤子(いんし)の第一皇子で、元々は臣籍降下していた源定省の子供で、源維城(これざね)と呼ばれていました。

宇多天皇が皇籍復帰した後、息子の維城も皇籍復帰し、親王宣下を受けて敦仁(あつぎみ)という名を与えられました。旧皇族が皇籍復帰して天皇になった先例です。

宇多天皇の訓示に基づき、寛平御遺誡を受けて藤原時平を左大臣に、菅原道真を右大臣に任命しました。形式上は天皇親政の体制を整え、後に延喜の治と呼ばれる善政を行いました。

一条天皇

一条天皇は、円融天皇と藤原兼家の娘の藤原詮子の第一皇子で、懐仁(やすひと)という名です。寛和2(986)年6月23日(7月31日)に起きた寛和の変によって、先帝である花山天皇が退位し出家したため、一条天皇が践祚しました。その際、譲位の宣命が「あたかも内裏において在位中であるかのように」作成されました。後世には、先帝不在の異常な譲位が「如在儀」として表現されています。

一条天皇は数え年7歳で践祚したため、藤原詮子の父である藤原兼家が摂政に任命されました。本来、摂政宣下は先帝が譲位の宣命とともに行うものですが、先帝が不在のため、その前の天皇である円融院が摂政宣下の詔を出しています。この時期、冷泉系皇統と円融系皇統による両統迭立となっているため、皇太子には冷泉天皇の第二皇子である居貞(おきさだ)親王が皇太子となりました。天皇よりも4歳年上の親王が立太子するというのも、それまでの先例にはありませんでした。

一条天皇の治世では、藤原兼家の死後、長男の藤原道隆が関白を務めました。藤原道隆の死後に弟の藤原道兼が7日間関白に就任しましたが、病没します。その後、藤原道兼の弟である藤原道長と藤原道隆の子である藤原伊周との権力争いがあり、最終的にそれに勝利した藤原道長が政権を掌握しました。

藤原道隆が関白になると、自らの権力基盤を固めるために娘の定子(ていし)を入内させ、立后を実現しようとしました。しかし、円融中宮の遵子が存在していたため、遵子を皇后とし、定子を中宮にするという前例のない強硬手段をとりました。藤原道兼の病没後、藤原道長が右大臣として一の上卿である一上となり、また准関白ともいえる内覧となって政権を掌握します。藤原道長も藤原道隆と同様に権力基盤を固めるため、娘の彰子(しょうし)を入内させ、中宮定子を皇后とし、彰子を女御から中宮とする一帝二后の初例となります。

一条天皇自身は、藤原道長によって政治が壟断されたわけではなく、藤原道長と協調して政治を行いました。長保元(999)年7月27日(9月9日)には、新制十一箇条とが発布され、これには従来の新制にはない条項が多く含まれ、後世の新制に大きな影響を与える内容となりました。

後一条天皇

後一条天皇は、一条天皇と藤原道長娘で中宮彰子の第二皇子で、敦成(あつひら)という名です。三条天皇の譲位によって践祚し、数え年8歳で即位しました。皇后には道長の三女である威子(いし)が立てられたことで、藤原道長の娘が皇后、皇太后、太皇太后の三后の独占が実現します。

藤原道長は、後一条天皇の摂政をわずか1年で子の藤原頼道に譲り、太閤として摂政を後見する立場となります。有名な「望月の歌」は、この頃に詠まれています。

寛仁二年十月十六日条 この世をば、我が世とぞ思ふ、望月のかけたる事もなしと思へば

また藤原実資が書いた日記小右記では、道長を批判的に書いています。

寛仁二年六月二十日条 当時太閤(道長)の徳(権力)、帝王の如し。世の興亡、只我心に在り

後一条天皇の時代は、藤原摂関政治の最盛期にあたる時代であり、藤原道長が栄華を極めました。ただし、中国やヨーロッパのように藤原道長が天皇に成り代わることはありませんでした。天皇に成り代わろうとした前例として、蘇我氏や弓削道鏡が挙げられます。実際、藤原氏が天皇に成り代わることになれば、滅亡の危険を伴うため、天皇の権威を利用して権力を握る方が安全であったと考えられるでしょう。

太上天皇の尊号の事例ではありませんが、後一条天皇が皇太子を辞退した敦明親王に対して、太上天皇に准じる「小一条院」の号が宣下された特例がありました。

後三条天皇

後三条天皇は、後朱雀天皇と三条天皇第三皇女で皇后禎子の第二皇子で、尊仁(たかひと)という名です。即位前は、生母が藤原氏出身でないため、関白藤原頼道に冷遇されていました。しかし、治暦4(1068)年になると先帝である後冷泉天皇の崩御に伴い践祚します。

治暦3(1067)年に藤原頼道が関白を辞任し、後三条天皇の即位が確実となる中、弟の藤原教通に関白職を譲りました。後三条天皇は、摂関家の政権独占を打破するため、親政を行う姿勢を鮮明にし、多くの人材を登用しました。そして、延久の荘園整理令の実施に伴い、記録荘園券契所が設置されます。これは荘園の所有権をめぐる公験(くげん)の審査を朝廷が行うもので、特に藤原氏についても厳しく対応しました。藤原氏の経済基盤である荘園を基準値まで没収されたため、朝廷の経済基盤が確保されるとともに、藤原摂関政治の陰りが見え始めました。

白河天皇

白河天皇は、後三条天皇と藤原茂子の第一皇子で、貞仁(さだひと)という名です。白河天皇は、後三条天皇の譲位によって践祚しましたが、天皇としての治世よりも、譲位後に院政を開始したことで有名です。譲位後、白河天皇の第二皇子である善仁(たるひと)親王に譲り、院政を行いました。

院政とは、天皇の父親や祖父が皇室の家長である「治天の君」として、天皇に代わって政治を行う体制です。摂関政治は天皇の母方の父親や祖父である藤原氏が摂政や関白として政治を行う体制であるのに対し、院政は天皇の父方が関与する点に違いがあります。

白河上皇の院政は、堀河、鳥羽、崇徳の三代にわたり、40年以上続きました。この期間、院命がなければ関白だけで践祚を実行ができないなど、摂関政治時代にはなかった新たな先例が作られました。平家物語では、白河上皇の院政でできないものとして、「賀茂川の治水」「すごろくの賽の目」「比叡山の山法師」をもって天下の三不如意として語られ、それ以外は何でもできると表現されました。

後白河天皇

後白河天皇は、鳥羽天皇と中宮藤原璋子の第四皇子で、雅仁(まさひと)という名です。後白河天皇の治世は、鳥羽上皇の院政時代で、保元元(1156)年に鳥羽法皇が崩御すると、保元の乱が起こりました。

保元の乱は、皇位継承問題や摂関家の内紛から、後白河天皇と崇徳上皇の間で争われました。平清盛や源義朝らの活躍によって後白河天皇側が勝利し、崇徳上皇は讃岐へ流されました。その後、3年で二条天皇に譲位し、上皇となって院政を開始しました。しかし、二条天皇は上皇による院政を反対し、天皇としての親政を望んでいたため、後白河院政派と二条親政派の対立が生じます。

二条天皇の後、六条天皇が即位しますが、平清盛らの協力を得て退位させ、二条天皇の弟である高倉天皇を即位させます。これにより、後白河上皇の権力が確立しますが、その後、平家との間に軋轢が生じます。そして、平家打倒のために寺社勢力と協力しようとしたため、治承3(1180)年には平清盛らによって後白河法皇が幽閉されました。これを主君押し込めといいます。

主君押し込めとは、主君を殺害することで「王殺し」として汚名を着るため、最高権力者を武力で脅迫し、拉致・監禁して幽閉や軟禁状態にし、その間に有利な君主を立てて権力を掌握することです。

高倉天皇と平清盛の娘である平徳子との間に生まれた安徳天皇を即位させたことで、平清盛が外祖父として藤原氏に匹敵する権力を持つようになりました。安徳天皇の即位により皇位の望みを絶たれた以仁王は、源頼政らとともに平家打倒のために挙兵します。平家側の戦局が劣勢となり、平清盛も病没する中で、後白河法皇は院政を再開しました。その後、木曽義仲によって再び幽閉されましたが、源義経が上洛し木曽義仲を討ったことで、再び院政を開始します。

後白河法皇は、源義経らに平家追討を命じ、文治元(1185)年に壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしました。その後、源頼朝と源義経の間に軋轢が生じ、後白河法皇も源頼朝追討の宣旨を発し対立しましたが、奥州藤原氏の討伐を契機に、源頼朝と後白河法皇の関係は正常化しました。

源頼朝は東国を中心に守護と地頭が設置し、鎌倉において武家政権を築きました。源頼朝が武家の棟梁として征夷大将軍に任官したのは、後白河法皇の崩御後です。建久3(1192)年7月12日、源頼朝は朝廷から征夷大将軍に宣下され、鎌倉幕府が成立しました。幕府成立の初例です。

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