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日本の近代化によって天皇はどのように変貌したのか?立憲君主としての天皇のあり方を見る

天皇の制度は近代化によって大きな変化を遂げたものの、変わらない要素も残りました。近代化による大きな変化には、立憲君主制の採用と、日本の国柄にあった憲法の制定が含まれます。変わらない点として、天皇と国民との絆は維持され、むしろ天皇が国民の前に姿を現すことが少なかった近代以前に比べると、より身近に感じられるようになりました。

近代の天皇や天皇と近代憲法との関係についてご紹介します。


近代の天皇

王政復古

日本の近代化を促す契機となった事件が発生しました。嘉永6(1853)年、マシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国東インド艦隊の艦船4隻が、日本の浦賀に来航しました。同時期、ヨーロッパではロシア帝国とオスマントルコ帝国が戦争を繰り広げており、大英帝国やフランス帝国も介入して大規模なクリミア戦争が行われていました。この時期、アメリカは日本に開港を要求しました。

翌嘉永7(1854)年には、日米和親条約と日米修好通商条約という不平等条約が締結され、その後、アメリカやロシア、オランダ、フランスとの条約も次々と結ばれました。

国内では江戸幕府の政権担当能力が衰え、反幕府勢力が台頭しましたが、幕府の公武合体策によって批判は一時的に封じ込められました。しかし、公武合体策が失敗すると、薩摩藩や長州藩を中心とした反幕府勢力によって武力倒幕が試みられます。

幕府の最後の将軍、徳川慶喜が先んじて大政奉還を実施します。大政奉還とは、天皇が国家統治を征夷大将軍に委任していた「大政」を、再び天皇に返上することです。慶応3(1867)年12月9日、王政復古の大号令が発せられ、徳川幕府の政治や京都の律令体制など既存の制度が廃止、新たな制度を構築するために、さまざまな役職が設置されました。

薩摩や長州は将軍が保持していた官職や領地の返上も強要しましたが、反対が多く、体制が一新されたものの、徳川将軍家とくに徳川慶喜がいないと政治が機能しない状態が残ります。薩摩藩とくに大久保一蔵や西郷吉之助は徳川家を打破し、新政権樹立の必要性を認識し、ついに倒幕に向かいました。戊辰戦争の緒戦である鳥羽伏見の戦いでは、新政府軍の形成が不利な状態だったものの、「錦の御旗」が翻ったことで徳川慶喜を始め多くの幕府軍が戦意を喪失します。その後、江戸城は無血開城されましたが、会津を中心とする奥羽越列藩同盟の形成や、北海道函館で榎本武揚らによる蝦夷共和国政府の樹立宣言がありました。しかし、新政府軍によってこれらも平定されました。

戊辰戦争で倒幕に成功した大久保一蔵らは、天皇を中心とする新政権を樹立し、近代化に向けた制度作りを行いました。

立憲君主制とは

近代化に向けた制度作りの一環として、ヨーロッパの制度を参考にし、日本は立憲君主制に移行することになりました。立憲君主制とは、憲法によって君主の権力が制限される政体です。君主の役割や権限は国によって異なり、歴史の中でそのあり方が定まっています。例えば、ヨーロッパの君主であれば、主から国を支配する権利と権力が与えられたものとしていました。天皇の場合、天皇と臣民による合議によって成立しているため、ヨーロッパの君主像とは異なっています。

ヨーロッパでは、国を支配する権利と権力を持っていた君主が、革命や国民国家の形成を経て、権力が制限されるようになりました。

君主の権力には以下の代表的なものがあります。

  • 法律を定める「立法権」

  • 法律を裁定する「司法権」

  • 法律を執行する「行政権」

国家統治に必要な権力を君主から切り離し、権力の源泉とするのが立憲君主制です。しかし、君主は権力を制限されるものの、影響力の行使までは制限されていません

君主の3つの権利

イギリスの憲政史家ウォルター・バジョットは、著書である『イギリス憲政論(The English Constitution)』(1867年初版)の中で君主の3つの権利について述べています。

  • 相談を受ける権利「被諮問権」(right to be consulted)

  • 激励する権利「激励権」(right to encourage)

  • 警告を発する権利「警告権」(right to warn)

君主は、これらの3つの権利を効果的に行使することで国政に対して影響力を発揮します。これらの権利を行使することが、立憲君主制を採用する上で重要とされています。君主がこれらの3つの権利を行使した場合、首相や閣僚は君主の発言を聞いて実行する義務はありません。ただし、発言を聞かなかった場合の失敗の責任だけではなく、聞いた場合の失敗の責任も負うことになります。

例えば、名君が3つの権利を行使した場合、首相や閣僚がその発言を聞き、実行することが多いでしょう。一方、暗君が行使した場合には、発言を聞くものの実行しないという選択肢もあります。

君主は政治家と異なり、生まれながらに君主となる運命あります。幼少期から帝王学などの教養を身に着け、国内外の情勢についても、実際に政治を行う首相や閣僚から話を聞く機会があるため、政治家とは異なる視点で政治を見守ることができます。そのため、時の政権が誤った政策を実施する前に、3つの権利を行使して意見を述べたり、政策の進行に影響を与えたりすることができます。いわば政府の「顧問」としての役割を果たしているとも言えるでしょう。

内奏

日本は近代以降、内奏を行っています。内奏とは、天皇に対して内々に意見や報告を奏上する行為です。天皇は内奏の場で、内閣総理大臣や閣僚に対して3つの権利を行使することができます。

内閣総理大臣や閣僚は、内奏の内容を公言してはいけません。公言すると、天皇に対して責任を問うことに繋がるからです。立憲君主制の下では、君主は権力の源泉であり、直接権力を行使する立場にないため、権力を行使した責任を負いません。内奏で3つの権利を行使して国政に影響を与えようとする場合でも、その内容に問題があれば、内閣総理大臣や閣僚は実行しない選択ができます。したがって、内奏の内容を無断で公言すると、天皇に責任を問うことになりかねません。

新しい事例として、令和3(2021)年6月24日に西村泰彦宮内庁長官の定例会見において次のような発言をしました。

国民の間に不安の声がある中で、ご自身が名誉総裁をお務めになるオリンピック・パラリンピックの開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されているご心配であると拝察しています。

新型コロナウイルス感染症の影響で東京オリンピック・パラリンピックの開催の是非が国民の間で分かれている状況での発言となり、政府への批判として政治利用されました。天皇を政治問題に巻き込むことになるため、本来は慎むべき内容です。

天皇と近代憲法典

明治の近代化によって大きく「鉄」「金」「紙」の3つの分野が整備されました。「鉄」は「富国強兵」を意味し、近代化された軍の保有を指します。「金」は「殖産興業」で、鉄道網の整備や産業・工業振興、資本主義経済の推進を含みます。そして「紙」は、近代憲法典や行政機構の整備です。

近代化に向けて、維新三傑の木戸孝允や大久保利通にとって近代憲法典の整備は最優先事項であり、悲願でもありました。木戸や大久保の死後、伊藤博文が憲法制定に向けて活躍し、明治22(1889)年に大日本帝国憲法が公布されました。

天皇と大日本帝国憲法

大日本帝国憲法は「簡文憲法」とも呼ばれ、必要なことのみを条文化し、法律整備や運用で対応でいる事項は記述されていませんでした。また、憲法とはその国の歴史、伝統、文化の重要な部分を条文化したものです。伊藤博文や憲法制定に携わった井上毅などは、日本の歴史や天皇について『古事記』や『日本書紀』などを参照し、日本の国柄に適した憲法典を整備しました。

日本国の統治者

大日本帝国憲法第1条では、「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と規定されています。

この条文は、日本の歴史を体現するものであり、日本国の統治者が歴史的に天皇であることを確認しています。また、帝国憲法が停止した場合には、天皇が直接統治することを意味しています。

統治権の総攬者

大日本帝国憲法第4条では、天皇が統治権の総攬者として権力の源泉とされています。権力の源泉というのは、帝国憲法第4条にある「憲法の条規によりこれを行う」で表しており、天皇が直接権力を行使することは制限されています。

また、天皇が直接権力を行使しないことにより、天皇には政治的責任を負わせないという条文が存在します。それが帝国憲法第3条の「天皇は神聖にして侵すべからず」です。さらに、帝国憲法第6条から第16条までには、天皇大権に関する事項が列挙されています。

憲法停止状態

大日本帝国憲法施行後、憲法停止状態が2度発生しました。しかし、憲法停止状態においても機能するように帝国憲法は設計されており、これは帝国憲法第1条に基づいて、日本国の統治者が危機を乗り切るための方法です。

2.26事件のご聖断

昭和11(1936)年2月26日、一部の軍人によるクーデター未遂事件、2.26事件が発生しました。首相官邸や政府要人の私邸が襲撃され、多くの死傷者や重傷者が出ました。当時の岡田啓介内閣総理大臣は義理の弟が間違われて殺されてしまいましたが、本人は命拾いしました。昭和天皇は決起部隊に対して強い敵意を示し、鎮圧に向けて動き出します。昭和天皇の強い意思表示により、2.26事件は終息しました。

終戦のご聖断

昭和20(1945)年8月10日の御前会議では、連合国側のポツダム宣言受諾の是非が議論されました。御前会議ではポツダム宣言受諾に対する賛成と反対が3対3の同数となり、本来は内閣総理大臣が決定するところですが、当時の鈴木貫太郎内閣総理大臣は昭和天皇の判断を仰ぐことにしました。この決定は「ご聖断」と呼ばれ、鈴木内閣総理大臣が昭和天皇に判断を求めた結果、憲法停止状態が生じました。これは帝国憲法第1条に基づき、日本国の統治者としての判断に該当するといえます。

天皇機関説

天皇機関説は、国家を法律上の法人とみなした国家法人説に基づき、政府や議会、天皇なども法人の機関の1つとする考え方です。この説は、枢密院議長の一木喜徳郎や東京大学の憲法学者美濃部達吉、京都大学の憲法学者佐々木惣一によって提唱されており、政府が運用する際の定説でした。しかし、昭和9(1934)年に国体明徴運動が起こり、天皇機関説を支持していた美濃部達吉が排撃されることで、この学説は否定されました。

美濃部達吉の弟子である宮澤俊義は、天皇機関説には3つの異なる意味で用いられていたことを著書『天皇機関説事件』で説明しています。

  • 固有の意味の機関説:国家を法律上の法人とした場合、天皇は機関であるという解釈

  • 広義の機関:イギリス型立憲君主制を採用し、天皇の権能を制限し、国務大臣や帝国議会の権能を強化する解釈

  • 俗流機関説:法人としての機関とは異なり、機械の「機関」という意味であり、天皇は権能を持たず君主としての権利も持たない単なる象徴的存在として、いわば機械の「機関」のように機能するという解釈

明治初期の天皇親政を望んでいた宮中官僚や、立憲主義的な解釈を排除して2.26事件を引き起こした陸軍皇道派が意図していたものは、いわば「俗流機関説」といえるものでした。実際には、大正デモクラシーの流れの中で政党政治が定着して、これに伴って「広義の機関説」に基づくイギリス型立憲君主制の運用が進められます。しかし、昭和7(1932)年の5.15事件以降、挙国一致内閣の成立により、政党政治は次第に衰退していきました。

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