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誰かの存在に「ありがたいな」と思えること

私は最近、人に対して、自分への心配や連絡に対して、「ありがたいな」と思う気持ちを知りました。というか、思い出しました。

綺麗事みたいに聞こえるかもしれないけど。そう思うことが、少し前よりずっと増えました。

前回の投稿では、「他人は自分の苦しさを100%理解することはできない」という内容のことを書きました。そう感じているのも事実です。

ただ、誰かがほんの少し自分に声をかけてくれる、近くにいてくれるって、すごく貴重なことなんだ、と思ったのも事実です。自分の経験によると、なんですけどね。


人に会いすぎていた

大学では、会いすぎるくらい人と会って、話しすぎなくらい話していました。友達の人間関係の悩みを聞いて、自分まで気分が下がってしまうこともあるくらいに。

それくらい人に近付きすぎていました。人と深く関わることが悪いことだと言いたいわけではないです。私が、周りの人に起きることを自分事にしていたから、気持ちまで巻き込まれてしまったんだと思います。そこは、自覚して、巻き込まれすぎないようにする工夫もしていかないとな。

話を戻します。大学にいたときは、だんだんと友達や先輩、先生とかかわるのが億劫になっていて、他人に対して「ありがたい」なんてことを思う余裕も、選択肢もありませんでした。ただただ、「自分の安心できる時間が奪われる」とか「はやく離れたい」「逃げたい」とばかり思っていました。あんまり良くないですよね。


もしかしたら、ありがたいと思った瞬間もあったかもしれません。友達にささいなプレゼントをもらったとき、休み時間にいっしょに卓球をしたとき、先生と、先輩と、くだらない時間をいっしょに過ごしてくれたとき…。

自分に余裕があったときは、純粋にうれしく思ってました。

余裕がなくなって、自分の時間をもてずに、1日1日のできごとをリセットできないまま蓄積していって、「ありがたい」がはじっこに追いやられていって、さっき書いたみたいな気持ちになった、という感じかもしれません。


心にすきまを空けておく

ちょっと極端なんですが、わたしの場合は、今、これまでいた人たちの中から一旦出て、家族といっしょに暮らしています。言ってしまえば、社会の輪から出た、という感じです。

関わる人がすごく限られた状態でしばらく生活してました。
そんなときでも、たまに「私の住んでるところは今こんな感じだよ〜」とか「生きてるか〜」とか、友達が連絡をくれます。

この何でもない連絡をもらって、なんていうか、大学にいたときとはまた違う「あぁ、ほんとに、ありがたいな」という気持ちがありました。

私は、特になんの詳しいことも話さずに、助けも求めずに急に大学に来なくなって、それをされた側としては謎だし、どう声をかけるかも分からないはずです。別に連絡をしなくても、正直だれも困らないんです。

それなのに、そんなよく分からない人に連絡をくれる。

もし、本心で何を思っていても、たった一言の、一件の通知が、すごくあったかくて、嬉しかったです。無条件に。

人間関係がまっさらな状態に戻ったからそう思えたのか、心のどこかで連絡を期待してたからなのか、今のところまだ分かりません。体感では、前者の方が強いのかなぁと思ってます。

まあどんな理由だったとしても、そこで感じたありがたさに、嘘はなかったと思います。

大学に戻ったら、「ありがたい」ものが「逃げたい」ものに変わってしまうかも、と思うと、少し寂しいです。

だから、今の嬉しさを、あったかさを、それによって生まれる「ありがたい」を、まずは雑に扱わずにそのまま持っておくことにします。

そして、確証はないけど、それを受け取るには、心に「すきま」があることが1つの条件だと思ってます。だから、

「忙しくなっても、それを受け取れる『すきま』を、ポケット1つ分でもいいから空けておく。

を試してみようと思います。

「ありがたい」ものを「ありがたい」と思えるように。

ありがたさって、当たり前にある気持ちかもしれないけど、無下にしないで大事にすることで気付ける自分のまわりに溢れた「やさしさ」もきっとあります。そう思います。



最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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