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女性の依存症者~昭和の時代の話。

初診

平成7(1995)年2月中頃のことである。その日の午後からは明日の出張の準備にあてようと考えていた。そんなところに電話がかかってきた。外来看護師からである。
「もしもし、患者さん来られています。何かアルコールの問題で先生に相談したいそうです。よろしくお願いします」と。
・・・昭和3(1928)年生まれ、加賀夕子、女性!それもおばあちゃんかなぁ?
「ところでどんなご相談ですか」
「ええ、私10年前から仕事をしなくなって調子悪いんです。とくにこの2~3年老いを感じるようになって、それでお酒も増えたし、朝から飲むようになったんです。私、正常なんでしょうか、教えてください」
老いを感じる?ずい分とお若いじゃありませんか、服装だって、お化粧だって、と言葉になりそうなのをぐっと抑える。そしてまた、小柄ではあるが均整のとれたとても引き締まった体型である。60才半ばにはとても見えない。
ただ、アルコール問題を抱えている本人が、自分から「私アルコールに依存していません」ってのは要注意である。医療機関とか治療者への依存傾向が強くなるケースに多く見られる初診時の態度である。
「あなたの病気ね、治してもらうつもりで来たのなら治りません。あなたの中の治そうって力が働かないと駄目なの、分かります」
お医者さんのところへ来て治せませんよと、つれなく言われて分かるほうがおかしいわけ
だがとにかくアルコール依存症の患者さん、最初が肝心である。
「それで、えーと毎週水曜日の外来で治そうっていう力を出し合っている仲間の人達の集まりをやっていますから、まずはそれによかったら参加なさって下さい」
彼女にとっては消化不良気味の納得いかない診察であったに違いない。
・・・まぁー、とにかくこれで来週来てくれれば、取り敢えず治療意欲ありと評価出来るけど、来ないだろうな・・・と思いながら私は出張の準備に取りかかっていた。
次の週の水曜日、「先生、その仲間の集まりとやらに参加させて頂けません」と約束の時間に病院に訪れてきた。
・・・ほぉー、来たんだ、やる気あるんだ・・・。それから6カ月以上になる。毎週欠かさずの通院、私との数分間の診察というより雑談を交わした後、アルコール依存症者を対象とした集団精神療法に参加してもらっている。

彼女の人生

そんな中、私は彼女のこれまでの人生に少なからず興味を持つようになっていた。彼女は東京生まれである。3才ごろに養女に出され、その後漫才師の養父母に育てられている。生家に関する微かな想い出、養父の生き方等々、これもまた興味ぶかいものがあるのだが省略させて頂く。
そして、昭和20(1945)年3月の東京大空襲でその養父母とも死別、全く身寄りのないまま終戦を迎えている。ただ、養父母と共に暮らす中で培ってきた芸事、舞台経験が幸いした。戦後間もなく進駐軍が接収したアーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場)のステージダンサーに採用され、終戦直後、女性が一人で生きる最悪の選択は避けることが出来た。がしかし、ステージダンサーとして過酷なスケジュールをこなすためヒロポン(覚醒剤)を常用、当然のごとくヒロポン中毒となり、幻覚症状が出現、精神病院への入院をこの時体験している。だが、ここでもまた、幸いに症状、状態のわりには早い立ち直りが出来ている。そして恋をし、一人の男性を愛し、昭和20(1950前半)年代後半にその男性と長崎に移り住むことになった。しかし、その愛もやがて破局を迎える。そこで彼女の選択がまたまた興味ぶかい、というか面白い。何か生産的な仕事に携わりたいと一念発起、職業訓練校に通い、女だてらにブロック工の資格を取得する。それから約30年間、男顔負けの仕事ぶりで長崎の土木建築業界では知らぬ者なしで通してきたとのことである。ただこの10年近く前に、業界でも定年制が導入され引退を余儀なくされている。それからがどうも酒量が増え、最近では時に朝酒をするようになったとのこと、そこで「私の飲み方は異常なの」と私の病院(精神科病院)へ足を向けることになったわけである。でも彼女は未だに現役のラテンダンサーである。年に数回はステージに立っている。そのため均整のとれた体型の維持に努めており、アルコールに浸かっている、というわりには、日常の生活は規則正しく健康的なものである。そんな生活を送ってきたことが幸いしてか、肝障害等の深刻な身体疾患の既往もなく、又、かなりの酒豪であったにもかかわらず、これまで酔った上で対人関係に亀裂が入るといった問題も起こしていない。だが今、彼女は酒を止め、アルコール依存症として自らすすんで通院治療を行っている。ここ10年近くの飲酒行動から、確かにコントロール障害(飲酒抑制不能)を認めるし、アルコール依存症であることは違いないのだが・・・。

静かなアル中

アルコール依存症を取り巻く人たちは、よくそのアルコール依存症者を評して「酒さえ飲まんやったらよか人ばってん」という。そして、アルコール依存症者本人に評して、酒を断ち、そんな善人の生き方に戻ることを求める。さらに精神科で行う治療の結果にそれを期待する。だから逆に、周囲が問題としない、あるいは許容できる飲み方、いわゆる『静かなアル中』といわれるアルコール依存症者(実は最近増加しているのだが)については、本人はもちろんのこと、取り巻きの人たちも精神科専門治療に繋がろう、繋げようとはまず考えない。それだけに、そういった『静かなアル中』と見なされるアルコール依存症者が、私たち精神科を訪れて来る時は、すでに身体的な障害がかなりすすんでいる上に、低人格化(心身両面の衰弱)、ないしは痴呆状態になっており、治療というよりむしろ保護を目的とした処遇になることが多い。
では、アルコールに対してコントロール障害が認められる人なら誰にでも、静かに飲んでいようが、はた迷惑であろうとなかろうと、とにかく直ぐに酒を止めさせ、シラフの状態を維持するように指導すべきかというとそういうわけにもいかない。
『シラフになってよか人(善人)で生きる』とは、『人のためだけに生きて自分の生に喜びを見出せない生き方』ということでもある。そういった生き方が長期に及ぶと、抑圧された感情は心身の障害として表面化する。そのため酒を止めたのはいいが、胃潰瘍になったとか、うつ病に罹ったという患者さん、これもまた結構多い。

何故お酒を止めているんですか?

そこで、私は加賀さんにこんな問いかけをしてみた。
「加賀さんね、今あなたが酒を飲み続けて死んだって誰も非難しないと思うよ。それどころか一生懸命生きて、それで好きなお酒楽しんで人生を全うした素晴らしい女性だといって送ってくれるんじゃないかな」
「そうなの、現に今だって親しくしているお友達から、私がお酒を飲まなくなってつまらないって言われたりするんです」
「じゃ、今なぜお酒止めているの」
「見えるんです。お酒止めているといろんなものが見えるし、分かるんです。こんなこと知らないままに死ぬなんて勿体ないじゃありません」
アルコール依存症者の治療とは、生きるか死ぬか(社会的な死も含めた)ギリギリの時、つまり『底をついた』状態になって初めて始まる、といわれている。だから『底つき』を感じないで周囲の圧力、あるいは説得で、それも他者の評価を期待して酒を止めること、それは早晩再飲酒するか、既述したような心身の障害に悩まされるか、そのいずれかである。では、とにかく『底つき』させればいいかというと、医療従事者である私たちは『底つかせる』前に救命、あるいは心身の急性期治療にあたらなければならない。困ったことである。さらに『底つき体験』、即ち『喪失体験(愛する対象、財産、健康、そして名誉を失う体験)』これもまた心身の障害の原因となる。とにかく、そこにたどり着くまでが大変なことだが、アルコール依存症者の回復とは、見栄とか体裁、世間体といったものをかなぐり捨て、絶望の中にある自分をどれだけ大切に出来るかどうか、というところから始めなければならない。

素面(しらふ)で生きるわけ

では、加賀夕子は何故酒を止めているのだろう。一般的な世間、私たちから見れば、彼女のこれまでの人生、それは、何回も『底つき』をしている。『底つき』に慣れっこになっている、というより、何か失うものも、守るものもないだけに、自分を大切にする生き方が身に付いていたに違いない。だから今度も、多分もう一度だけと、そんな自分のために酒を止めてみたところ、シラフで見える道端の雑草の新芽に心地良さを感じる自分に驚き、そして、そんなものの見方、感じ方の出来る自分が、今、愛しくて、嬉しくて仕方がない、といったところかもしれない。だが一方で、この数ヶ月の間に、親しい友人から「お酒飲まなくなってつまらない」といわれ、寂しさ、空しさにもチョッピリ支配されている。でも、そんなシラフで感じる寂しさ、空しさもひっくるめた自分が好きで、大切に思えている限り、彼女にはもうお酒は要らないはずである。
-加賀夕子、もちろん仮名である。ただ、ご本人には、こういった形で紹介することについてのご承諾は頂いている-
 
*2022年ブログ公開時、彼女はすでに鬼籍に入っている。

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