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天からの借り物

生まれた時はみんな同じ赤子です。

親になってくれた人とは奇跡の出会い。

すべて頼って人間としての1歩を踏み出すことが出来たことに感謝しかありません。

時は経ち、それぞれの環境で外見も、考え方も、癖もみんな好むと好まざるにかかわらずひとりの人間として作り上げられてきました。

それは親にとっては重大な責任を負わされたような任務だったかもしれませんが、何をもって立派な子供に育て上げたかはわかりません。

まずは健康、成人までは…。と願うものです。また世の中で生きる力を備えてほしということも。

成長すると、自分自身に悩み、環境や親を怨む人も出て来ます。その反対にそんな逆境の中から這い上がって、親より逞しく生きていく若者もたくさんいます。どんな親に出会うかは宿命と言えるでしょう。しかし運命は変えられる!と言った人がいました。

小さなころは豊かに生活している子が羨望のまなざしでクラスメートには映ったことでしょう。それだけがすべてではないことにいつ気が付くかそれはその後の人生で大きく影響することもあります。
逆境から這い上がる強い精神を備えるか、ただ人を羨むだけの人物になるかはある程度手本である親の生き方でも違ってきます。

その違いはどこから来るのでしょうか?一生順風満帆の人はいないと言っていいでしょう。その人に歴史あり!で、どのラインが平凡な人生だったと線引きするのかは難しく、いろんな苦労の仕方?があります。

試練は克服できる範囲でしか与えられないと言います。大きな苦労を頂いた、ありがたいとその時思える人はほとんどいないでしょう。後からあの時があったからと懐かしむものです。

コンプレックスを持つのも同じこと。なんで自分は人より容姿がめぐまれていないのか、人からちゃんと評価されないのだろう、どうしてモテないんだろうと。

そんな時、この体 自体、この世に生まれるために借りたモノ!と思えるか。そうと気が付かずぞんざいに扱ってきたのではなかったか。

お返しするまで、今まで付き合ってくれた体をもう少しいたわる気持ちも持ちたいものです。
今回左手を骨折して、今もなかなかうまく動かせないことを考えると、左手の事、そんなに意識していなかったなあと思いました。

その体が一番フィットしているから天から貸し出された。
そう思うと、自分の体をもっと大切にと今更ながら思います。

体のどこかが痛んできた時、それを恨めしく思う前に長年付き合ってくれたことを思い出す。よくついてきてくれたなあと。

ドアの蝶番が壊れた時「よく働いてくれたねえ」とねぎらうと言った人がいましたが、自分の体も同じ。

たまには悲鳴を上げることで「酷使に気付いて!」とサインを送っているのかもしれません。心身ともに穏やかでいることはなかなか容易なことではありませんが、借りたものは最後まで大切に扱いたいものですね。

最近容姿も身体も劣化がひどく若い時にシニアの方がそのことを大変悩んでいたのを思い出しました。私もあんな風に抗うのかなあと漠然と思っていましたが、実際その年になるとあまり気にならない自分が鏡の前に立っています。現実は残酷ですが、なんだか自然と受け入れています。たるんだ顔を見るたび「古希なんだもんねえ」と自分に。だんだん母に似てきたような気がします。それもまた感謝です。

今日もいい日にしましょう!






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