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思い出すのは些細な日常

私の生まれた昭和半ばはやっと戦争の傷口も癒えて、日本人が元気になったころです。戦争という二文字はおとなの中には深い傷を残しましたが、生きる証として生まれた私たちはおとなには前を向く希望だったことでしょう。

元町三宮は賑やかで活気がありました。元町通りや三宮センター街はいつも人でいっぱい。レコード店からはその時 流行りの歌が流れていたり、珍しいお菓子の店も並んでいて、ディズニーランドのようなワンダーストリートでした。映画は朝日会館によく連れて行ってもらいましたが、入れ替え制でも指定席が無く立ち見の人も大勢いました。映画デビューは「眠れる森の美女」それからディズニーファンになったのはもちろん。なんて夢のある世界なんでしょう!

舶来雑貨の店「ミッチャン」はセンター街の真ん中あたりにあり、垂涎モノの輸入菓子や、テレビに出てくるホームドラマのブロンド少女が付けている髪留めやカチューシャ、中にはプールの時に被る水泳の帽子がお花畑みたいなものだったり、(さすがにこれはねだりませんでしたが…。)所狭しと乱雑にと言っては失礼ですが並んでました。狭い店舗にもおとなはフランスやアメリカの化粧品を買いに来て、アメ横状態でした。そこで香水の香りも体験しました。

「Bell」のパンはパイ生地でエスカルゴのようなぐるぐる巻きの上に粉糖がかかってケーキなのかパンなのか⁈上のはかない砂糖が消えないように大事に持って帰りました。

もう一つピロシキは豚まんと並ぶ私のツートップのスナックです。

今でも売られていますが、中身の卵はやっぱりゆで卵をほぐしたものでないと…。パルナスのCMは今も歌えます。

小さな時に覚えた味はおとなになっても忘れることがありません。

ある時は祖父また父と、この二人にはミュンヘンに。もちろん唐揚げとジュース。買い物は母、靴や洋服はスポンサー⁈の祖母と一緒でした。大丸はちょっとすましたデパートでしたが、屋上の乗り物や、小動物を見るのが楽しみでした。

また7階の大食堂でホットケーキを食べるのも。こちらも広いホールはいつも満席。

家族と一緒の時は中華料理が多かったのですが、母と二人の時は大食堂と決まっていました。

我が家はおもてなしとなると決まって「すき焼き」でした。残念ながら当時はあまりお肉が好きではなかったので味のしみた麩と糸こんにゃくばかり食べていました。

決まって祖父が腕を振るいます。氷冷蔵庫で、ビールを冷やしてました。当時ビールは珍しくごくごくと飲むものではなかったような…。もちろん瓶ビールです。それを冷やす氷を触るのが好きでよく叱られましたっけ。

どうしても小さな時の思い出は食べ物となりますが、今はない宝塚ファミリーランド。阪急電車で行くのですが、当時父はスーツに中折れ帽子、母もブラウスにフレアースカートとまあ硬い服装なこと。

園内の動物も乗り物もうろ覚えですが、その電車から見る景色、青い山脈のモデルになった六甲山脈を左手に、右手の少しむこうに海が見えたのをはっきりと覚えています。まだまだ田園風景の続く車窓からの景色でした。

乙女餅は宝塚の名菓で少し硬い羽二重餅に薫り高い黄な粉がまぶされています。それをお土産に帰宅した夜、みんなで食べました。先日新しくなった宝塚ホテルに行きましたが、駅前で見つけて一つ買いました。

懐かしい味は変わらず口の中で広がりました。

果たして子供たちや孫たちはどんな食べ物の思い出を作るのでしょう。

それは案外私だけ?

今日もいい日にしましょう!










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