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ジェットコースター人生 53-4

今回は娘の事お話しします。

息子とは2歳違い。生まれてきた時は燃えるような赤毛でした。

身体は白いを通り越して透き通っていてうっすら桃のような薄ピンクのほっぺをしていました。この子が生まれて一番喜んでくれたのは母でした。

「女の子はいいよ~」あまり母子の関係はいいとは言えなかった私にそう言ってくれたことは驚きでした。

娘は夜泣きもせず、たまに息をしているかを確かめるぐらい静かで、ずーっと寝ました。

大きくなるにつれて髪の色も茶色くなり、中学校までは「染めていません」と保護者の一筆が必要でしたが、だれに似たのか不思議でした。

ある日亡くなった義母のタンスにアルバムを見つけました。小さなころの彼女はおとなたちと同じ様に着物を着ていますがそれには不似合いな、しゃれた帽子をかぶっていました。それもお洒落をしてのことなのかと気にならなかったのですが、そんな話を義姉にすると「その当時(大正時代)髪が赤いなんてあまり良く思われなかったので帽子は外出の必需品だったらしいよ」

彼女も真っ黒ではありません。そういえば主人も。若い時から白髪が多くすでに染めてました。

どちらかと言うと息子は私のパーツを継いでますが、娘は主人側。

小学3年生で父親と別れる運命とは皮肉なものです。病弱な義母も50歳そこそこで亡くなり見るからに華奢な体を娘も継いでいるのではないかと心配しました。

10才の彼女の中でどんなことが起こったのかも母親の私には救い上げていないままでした。

中学、高校と自然に育ったように見えましたが、引っ込み思案で人見知り。

しかし環境にもまれて強くなったようです。

中学2年の時親子三人で北海道旅行を計画しました。

私はトワイライトエクスプレスの予約をしてあの海岸線を走る車窓からの夕日を見せたいと張り切っていました。

オリエント急行列車を思わせるような重厚な車体は大阪駅に静かに待機していました。

いつの間にか動き出して少々時間のかかる旅行は始まりました。

時には外の景色を見ますが、本を読んだりお菓子を食べたり、二人には退屈な時間だったと後日聞かされました。

残っている記憶は「列車が揺れても微動だにしないサービスの様子や夕食のステーキと何十年ぶりかで北海道を襲った台風で青函トンネルの手前で止まった時の朝食で出されたうな重が美味しかった。」

夜遅く付いた旅館の豪勢な食事を全部食べられず今から思うと惜しくて…。とほとんどが食べ物の事ばかり。

「え~夕日は?」親の心子知らずです。

そんな話をする二人ももうすっかりおじさんおばさんの域に入って「私に追い付いてきたね!」と言うと「なんでやねん」同じように孫たちも真似します。

昨年生まれた三人目の孫とはこの暮れ初の対面になりそうです。

送られてくるインスタの小さな女の子は娘のあのころとそっくりで

「怪しいダンスを獲得!」と動画で披露してくれますが、母となった娘と重なって胸が熱くなる今日この頃です。



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