12/24 メリークリスマス
週末のクリスマスイブとなりましたね。
本日も『天上の葦 下』です。
読みながら、私が引き込まれるキャラクターにある何か。
一つこれかあと思うものがありました。
それは加害の傷。
自分の中に自分自身を決して許すことができない、取り返しのつかない行いの記憶がある。それを背負って生きていくこと。
潰れて浮上できない人も、正当化し関わりのないものに対し更なる罪を重ねる人も、反対に禊ぐようにして生きる人も、加害の事実すら受け止められず目を逸らしている人も、楔を打たれたようにある一点に縛り付けられることになる。私はそれが気になってしまう。
その傷は癒えることがなかった。
目を逸らされ、放置されるか、何度も抉られるかで。
自分が傷つくなんて許されない。ましてや癒すことなんてできない。
何をしても許されない。自分が許さない。そうしてちぢこまって生きていくことが反省だと思い込んでいる。
それは全く反省ではない。
それはそれと割り切って忘れようとすることも、どうせ自分はダメだからと開き直ることも同じ。
加害者の傷つきに目を向け、受け止めることは、庇うことや、正当化や甘やかしではない。むしろ相手にとっては罰されるよりもしんどくかんじられることかもしれない。
それは正しい反省への道だから。よく見て、感じて、そんな私をこれからどうしていくのかについて自分で取り組むための。
罰を受けても、自分を引っ叩いても害された人には何の償いにもならない。無かったことにはできない。絶望的に取り返しがつかない。
それを理解し自分を責めても、相手や環境のせいにして現実から目を逸らしてもどこにもいけないことを理解し、あの時の私に今の私が何をいうのか。してやれることを考える。それが二度と同じ過ちを繰り返さない、繰り返させないことにつながるように思う。
心の癖によって再び加害に向かう気持ちが浮かんだ時に対処できるのは、罰気乗りて自分を押さえつける術を身につけた人ではなく、自分の過ちを自分で受け止めた経験がある人だと思う。
今は被害者の方が加害者の分まで考えて「被害を受けないように」対処している。まるで被害を受ける側の問題であるかのように。そうせざるを得ないから。
問題の所有者は加害者で、当然それに対処していく主体は加害者の側なのだというメッセージを社会全体が送るような何か転換がひつようだ、と思う。
私は物語で人物が加害の傷をどうしていくのか、その行く先を見たいと思うんだろうと思う。
明日は家族で映画の日です。
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