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『元の黙阿弥』 奥山 景布子

 狂言作者の河竹黙阿弥の物語。
 日本橋の商家に生まれた河竹は歌舞伎界に憧れ、頭の中は芝居のことばかり。家業を捨て芝居作者の道をひた走ります。
 幕末の江戸、それから東京と変化の大きな時代に翻弄されながら、舞台という客の反応を間近に感じられる場所で作品を発表し続ける河竹の姿、歌舞伎役者たちの壮絶な人生が描かれます。
 
 中でも魅力的なのは、美男でも役者の家の生まれでもない個性派、左團次。それから妙な色気と愛嬌を持つ悲運の女形(身体が末端から腐って切断することになるのです)田之助。自らの魅力を最大限引き出す脚本を求めるやりとりに、舞台を作り上げる情熱を感じます。
 人気はあるが一般人より身分を下に置かれ、何かと興行を邪魔される江戸時代の苦悩。時代が変わり、政府からより史実に忠実であることを求められる苦悩。魅力な歌舞伎役者たちの輝かしい時と舞台から遠ざかる時。
 面白い舞台を提供したくさんの人を熱狂させたい、楽しんでほしい、ただそれだけのことに人生をかける人たちの姿を、愛しいと感じてしまうのです。
 
 同作家さんの描いた与謝野晶子・鉄幹の物語『やわ肌くらべ』と今度の話、どちらも作家の楽しみ、情熱、苦悩についての物語でした。
 でも悩みの内容はかなり違ったように思います。
 『元の黙阿弥』ではシビアに興行成績を意識しなければならなかったためか、そもそもがエンターテイメントを提供してこそという意識が強いのか、作者の意識の半分くらいは観客の方を向いていたけれど、芸術性を競う『やわ肌くらべ』の方は意識のほとんどが作者同士に向かう。同好の士の世界といった感じがありました。
 後者はスポーツや芸術、囲碁将棋やeスポーツのような、同好の士と対戦する、または自分の世界を表現することを高めれば、きっと見る者に届く(経済的なものが発生する)はずというような感じに思えました。 
  

 小説の感想からちょっと飛ぶのですが、AIの発達によって、素晴らしいエンターテイメントが生まれ、あらゆる芸術やスポーツ、囲碁などのゲームでハイスコアを叩き出せるようになったとして、果たして私たちは書くこと、スポーツやゲームで高みを目指すことを諦めるだろうか? なんてことを考えたりします。
 とても敵わないのだと分かりきっていたとしたら。もう誰んことも本当に心沸き立たせることができないのだと知らしめられたとしたら。そこはどんな世界だろう。

 きっとそこは昨日『汝、星のごとく』で描かれた女性の鬱屈ににている。 
 何をやっても男性より評価されず、雑用に押し込まれ労われることもない世界に似ているのではないだろうか。
 AIには敵わないけどね。所詮人間なんだから同じようにできるわけないだろ。お遊びだよ。
 ここで奪われているのは仕事じゃなくて、やりがいだろう。自分を誇る気持ちだろう。阻害された惨めさは人を蝕む。

 人は本当にただ受け手でいるだけで満足できるだろうか。意味を感じられるだろうか。
 スポーツや物語で受けた感動はエネルギーとなって、私も生活の中で誰かに何かを与えたいという欲望になるのではないか。
 きっと人はずっと受け手、消費する側ではいたくない。与えたいというのが本質ではないか。
 受け手がいない世界で、一線から阻害されて人は誇りを自信を失う。それはきっと、どうせ女だしと何かを諦めさせられる気持ちに似ている。
 きっと人はそれでも書きたい。それでも作りたい。それでも動きたい。表現したい。その価値。
 役に立つこと、成果を出すことから阻害されたとき(それは老いと似ている)、より私自身であることが大切になる世界にシフトしていくのかもしれない、とかとかよくわからんことを思う。


 後半完全にただの日記になってしまった。
 日記になったついでに書いておこう。
 昨日の『汝、星のごとく』の感想の父親の恋人を好きになれない、というのがどうしてかというのは正確ではない気がする。子供が別れた両親を憎みたくないがあまり、現在の不幸は本当は両親の問題だとわかっているはずなのに父親の恋人のせいだと矛先をすげかえるような感じだ。もう少し整理したいと思う。 
 

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