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『何が私をこうさせたか――獄中手記』 金子文子

 なろう仲間さんが活動報告で紹介していたので手に取った。
 戸籍がないために幼い頃から一般のルートに乗ることができなかった人の手記を読んだのはこれで二冊目。
 彼女たちがどんな人生を送ったのか。

 最初に読んだ『エデュケーション大学は私の人生を変えた』(タラ ウェストーバー著)では幼いタラは、学校は、外の世界は害悪だと教える両親を信じていた。親が愛を語り支配をしていたからだ。
 そのため両親の世界に長く巻き込まれ、親への愛と自分を生きることとの間で苦悩することになった。
 強烈な親をどうにか出し抜いて外へ飛び出しても、そこから自分自身と戦わなくてはならなくなるのは「親は私を大切にしていない、ただ支配していただけ」という現実を直視しきれず、親の愛の幻を見、元の世界に戻ろうとする無意識の力が働いてしまうからだろう。
 何度も裏切られてきたはずなのに、幻想世界に没入し「自分がなんとかしなければ」という場所に落ちる。夢の中で、もう目が覚めたと何度も思うかのように。


 しかし『何が私をこうさせたか――獄中手記』の文子は早い段階で「他の子と違って私が受け入れられないのは、戸籍がないせい(親が悪い)」という理解をしていた。
 偏った思想を持っていたため外の世界を遠ざけたタラの両親とは違い、文子の両親は何の思想もなく、ただ文子をぬいぐるみのようにかわいがり、転がしておき、面倒がり、責任を持たなかった。
 文子は愛情飢餓を抱えていたが、素直に愛をくれない親がひどいと考える。外でも他の子と同じように扱われないのは全て戸籍がないせい(親のせい)だと理解している。
 文子は日本でも、韓国でも、どこへ行っても不当に「いらない子の扱いを受ける」のだが、タラのように愛の幻想を見て「満足させられない自分がだめなのだ」とは思わない。「おかしいとわかっているのに従わなくてはいけないのだ」とは思わない。
 文子の相手がおかしい、自分はOKという感じ方は、どんなにめちゃくちゃで見捨てられている現実を突きつけられても「私がちゃんと役割を果たしさえすればどうにかできたはず(私がOKではないせい)」という幻想にしがみつくタラよりずっと健康的だと思う。


 タラと文子のこの差はどうして生まれたのだろう。

 思うのは、タラも文子も幼い時に感じた感情を繰り返しているのだということだ。
 タラはそうではない現実を前にしても何度も「親は邪悪な世界から私たちを守ろうとした、なのに(私はひどい)」という親の塗り込んだストーリーに取り込まれ「私はここ(家の外の世界)にいるべきではない。家族といるべき」「(家族が不幸なのは)私のせい、私が何とかすべきもの」と落ち着かない気持ちに立ち戻る。洗脳されているのだ。洗脳だと気付いてさえ容易には解けない。

 文子は「理解のない人間のせいで不当に評価され、いらない子にされる(相手がひどい)」という自分の信じたストーリーを再現し続けてしまう。これは文子にとって現実であり、また自分で自分を洗脳して見た世界なのだとも思う。
 洗脳というと言葉はおかしいが、文脈を決めたのは文子だ。同じ経験をしてもまったく別の文脈で世界を見る人もあるだろう。私たちは誰しも幼い自分の決めた文脈、枠組みから世界を見ている。
 もちろん文子に起きた現実は不当で痛ましい。決して幻想ではない。幼い文子の悔しさ、寂しさは誰しもに伝わるだろう。
 大人になった文子は幼い私を救おうとした。社会を変えようとした。

 大人になっても子供の頃の感情を再現していたのは文子自身だとも思う。再現し文子はそれをエネルギーとしていた。怒りを持って社会を変えることを使命とした。文子は再現に気づいていなかっただろう。

 文子は他者の中に自分と重なる不遇な要素を見つけると、そこで苦しんでいるのがまるで自分自身であるかのように思い、手を差し伸べずにはいられない。一緒に不当な世界を憎み戦おうとする。相手の中にかつての不当に扱われて悔し涙を流す幼い自分を見出す。相手の涙は私の涙なのだ。文子は他者との境界が薄かった。
 文子にはそうではない人生がきっとあった。でも文子からはそれ以外は見えなかった。自分で枠組みを強化していた。
 「理解のない人間のせいで不当に評価され、いらない子にされる」踏みつけられる。文子の世界はそういうもので、だから彼女の人生はそれを打倒するものでなくてはならなかった。
 選んでしまうのだ。枠組みが変わらない限り、苛烈な生き方を。

 文子の活動は幼い自分の悔しさを救い、心の健康を保とうとする動きのように思える。
 ともすれば自ら幻想世界にふみ入って心の健康を損ないかけるタラに対し、文子は一貫して自分を守り、健康であろうとしている。自浄作用が働いているかのように。

 それでも境界を薄くして他者の中に自分を見出し、つよく思い入れ救世主となろうとしてしまうと、必ず傷つくことになるのではないだろうか。いくら重なろうとも相手は私ではないからだ。
 相手のためにしたことを「いらない」と突っぱねられるのがきっと文子のような傷を持つものは苦手だと思う。過去が再現されたように感じるから。そうなると健康的とは言えない。文子がどうだったかわからないが。


 本来は「いらないものはいらない」と言えるのが健全な関係で、それを飲み込ませるのは支配だ。
 「あなたはわかってない、私が正しいのよ」「あなたのために言っているの」と愛を盾に洗脳するのは。「外の連中は責任をとってくれない、大事なのは家族だけ」などと自分以外との繋がりを断つよう求めるものは。そうして相手を強引に縛り付けようとするのは。
 タラの家族はそういう人たちだった。

 同じ戸籍のない子供であったがタラと文子が大きく違ったのは、その理由が真逆だったからなのかもしれない。
 タラの家族は戸籍を取らないことで外の世界が介入できないようにした。タラは支配の対象として縛り付けられて(強く必要とされて)いたが、文子の家族は子供の人生に無関心、無責任なため戸籍を取らなかった。文子はいらない子として翻弄されていた。
 全ては親の所有する問題なのだが、タラはそれを自分の責任として抱え込んで自身を磨耗させ、文子は親が問題だと切り捨てて、幼い自分を慈しんだ。
 より健全なのは文子の方だと私は思った。

 二つの本のタイトルにあるように、タラは支配的な親の手元から抜け出すことに成功し、自分の人生を歩み出す。大学……家から出ることの叶わなかったタラにとっての社会は、彼女の世界の枠組みを広げ、文字通り人生を変えていく。
 それでもタラの無意識は何度も彼女を閉じ込めようとする。支配的な親族の感情は現実を歪め、タラに新たなレッテルをなすりつけ刺客のように追ってくる。彼女は何度も混乱し、苦しめられる。親族、そして自分自身によって。
 いくら枠組みを広げても、幼い頃に無意識が確信している信念のようなものは簡単には書き変わらないのだなと実感する。それがどんなに非現実的なものであっても。

 方や文子は彼女自身の枠組みに従って世界を見、大きな使命のように思って権力に反逆する活動に邁進し、獄中死する。
 文子は幼い頃の信念のままに世界を見、自分と同じような人間の中で生き、あなたの傷は私の傷と重ね合わせ、まっすぐに突き進んだように思える。
 子供の頃の文子は何でもわかっており、本人もわかっていると確信していて、なるべくして彼女の人生は苛烈なものとなった。
 枠組みを強化し、境界を曖昧にして活動に、他者にのめり込んだ。

 タラが枠組みを広げる機会を得たのは、自分に対して全くこれっぽっちも確信が持てなかったからなのかもしれないな。まるで赤ちゃんのように自分を更新することができたのは。

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