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適応障害になって放浪した3日間を振り返るだけの記事。たぶんその①

人生の中で「死にたい」と思ったことは数えきれない。実行に移すほどの勇気はないとしても、思わなかったといえば嘘になる。
だけど、振り返れば、僕の「死にたい」は「逃げたい」と同義語のように思える。
そして、実際に逃げた日がある。

2019年8月20日、僕は適応障害になった。
もちろん、それは後から知った病名だ。
だから、最初は意味がわからなかった。ただ漠然と「心が壊れたんだ」ということだけはわかった。
なぜなら…

その時、僕は京都から彦根に向けて車を走らせている最中だった。
確か近江大橋を渡って少ししてからくらいだったと思う。
本当にいきなり、突然にそれは起こった。だから、意味がわからなかった。

車を運転しているだけなのに、堰が壊れたかのように涙が溢れ出し、嗚咽までし始めたのだ。

そうなった様々な原因はわかっている。
本当に心が限界を迎えるほどに、たくさんのプレッシャーを抱えていたからだ。

そして、そういったプレッシャーの一つ一つは僕が悪いと思っていた。「助けてほしい」と素直に誰かに頼れなかった。それさえも僕が悪いからだと思って生きていた。

僕のように甘やかされて生ききた人間は、いつも誰かが助けてくれていたことにさえ気付かないような人間は、素直にならなきゃ生きられないんだと、これは今の僕はそう思える。思えるだけで、未だに素直ではないが。まぁ、それにしても、とにかくそういう自分を受け入れなきゃいけないんだと思う。

変なプライドを育みながら生かされてきたから、もう自分でもどうしようもないくらいに歪んでいたんだろう。

「もっと可愛がられるように甘えていけばいい」と言われたことがある。どういうことかと言うと、僕は人から気にかけてもらえたり、可愛がられることが多かった。それこそ、僕よりも器用に生きていた弟よりも不器用な僕の方が目にかけてもらえるなんてことも多かった。

だけど、僕はそれがありがたいことだとか、幸運なんだとか思うこともなく、好かれているとかも思ったことはなかった。

だから、「甘える」なんて言われても、「なんで?」って感じだったし、そもそもどうしたら甘えられるのかもわからない。何よりも頭を下げるってこともできないポンコツだった。あ、これはお願いもそうだけど、感謝でも同様だった。会釈程度にしかできなかったと記憶している。

プライドとか見栄とか本当に「甘える」とか「助けてもらう」ためには捨てた方が良いものを大事そうにしながら生きてきた。

お陰で、気付けば自己嫌悪。すべての不幸は自分が招いたとか思ってた。

だから、適応障害にもなった。
その瞬間、僕の頭の中に浮かんだのは「逃げな」だった。

家族からも仕事からも親兄弟や親戚、友人、知り合いすべてから逃げなあかん。と思った。

やないと、もう完全に心が壊れてしまうと。

時間はまだ夕方くらいだった。夏だから日も長い。
ひとまず心が落ち着くまで、涙が止まるまで、駐車場のある公園で夜が来るのを待っていた。

夜になってから、僕は自宅の裏にあった空き地に車を止めて、少しの荷物と財布を持った。パソコンもスマホも車内に置いたまま。
車や家の鍵はポストに入れて、そして窓から漏れる子どもの声にただただ申し訳なさを感じて、謝った。

「もうそこに帰ったら、パパは壊れてまう。やから、ごめんな」とさっきまでとは違う涙を流しながら、重い足取りであてもなく歩き出した。

お金もそんなになかったから、すぐに底を尽きる。そうなれば、餓死でもできるんじゃないかと、安易だけどそうやって行き倒れることができれば楽やなぁと本気で思って歩いていた。

琵琶湖のほとりまで行けば人目もなく、ベンチで寝れるんじゃないかと車でしか通ったことのない道を徒歩で向かうと、果てしなく遠く感じながらでもなんとか琵琶湖に着いて、お誂え向きのベンチも見つけた。

スマホもないから、時間もわからんし、明日の天気もわからん。

ただ、ベンチで横になった時に空には星がなかった。雲で何も見えんかった。

「あれ?これ雨降るんちゃう?」と思っていたら、ポツポツと雨粒が顔に当たりだしたので、慌てて雨宿りできるところを探しに、また歩くことになった。

とにかく傘があればと、一番近いコンビニに着く頃には、もうビショビショ。餓死は描いていたけど、風邪を引くのは想定外過ぎた。傘を指したところで、足元が濡れることを防げないほどの大雨の中、いつまでもコンビニにいるわけにもいかないので、琵琶湖から駅の方へ戻ることに。

本当に何がしたかったのかと思うが、そのままネカフェに行った。

結局、僕は冒頭にも書いたように「死にたい」と餓死を描きながら、その実「逃げたい」だけだったのだ。

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