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「鳥かごのハイディ」第二十二話

第六章

KOOL荷物

 雲一つない、澄み渡ったラクロスの青空の中を、大きな翼を広げた野生の鷲が、自由気ままに、赤と青の境界線を行き来している。新しい年の十月の中頃、再びわたしたちはあのレンガ造りの古ぼけた小さなダイナーに集まって、当時飲むことのできなかったホットレモネードを啜っていた。
「まったく! いつまで待たせるつもりなのよ? これだからアーティスト気取りの奴って嫌いなのよ!」
 待ち合わせの時刻を大幅に過ぎても姿を現さない待ち人に、いよいよ痺れを切らしたアガサがテーブルを叩きながら騒ぐ。精神科医の仕事はよっぽどストレスが溜まるみたいで、ここのところアガサはまるで人が変わったように短気でいつもカリカリしている。
 彼女が患者側にまわる日もそう遠くないかもしれない。そんなアガサの独り言を、テーブルの向かい側でレモネードを啜りながら苦笑いで眺めていると、アガサが青い顔を浮かべて慌てて言い訳を始めた。
「ごめんなさい! 別にあなたのことを言ってる訳じゃないのよ?」
「やめてよ! わたしだって別に、レコード会社と契約してやってる訳じゃないし、まだアマチュアの段階よ?」
 血相変えて大袈裟に謝るアガサに対し、ギターケースをさすりながら答えると、そこへお店の古いドアベルがあの日のようにガチャガチャと音を鳴らし、女性が一人慌てた様子で店内へと入ってきた。
「よぉ、エレノア!」
 去年の今頃をまったく同じように再現する彼女に驚きながらも、それがもう随分と昔のことのように感じている自分に気づいていた。
「なにが『よぉ、エレノア!』よ! 待ってたのは彼女だけじゃないんだけど!」
 久しぶりに見るランディに、アガサは懐かしい友人に出会ったような笑顔を見せながらも悪態をつく。
「悪い! 道が混んでたんだよ!」
 舌を出して笑いながら、ランディはアガサの隣に座った。
「こんな田舎町で、約束の時間に二時間も遅れるような渋滞なんて、起きるはずないでしょ?」
 反省の色をかけらも見せないランディに対して、アガサはため息をついた。
「じゃあ、アタシの時計が狂ってたのさ」
 ランディはそう言って空っぽの手首をぷらぷらと振ると、呆れて口を開けるアガサの横で店の主人にホットレモネードを注文し、わたしを見て笑いながら言った。
「良い顔してるじゃないか」
 照れ臭そうに肯くわたしの前で、ランディが「きっと主治医が良かったんだね」とアガサに目をやると、「私はまだドクターじゃないわ!」とレジデント期間の終了していないアガサは複雑な面持ちで頬を膨らます。
「わたしにとって、アガサは主治医よ。フロイト博士なんかよりも抜群に優秀なね」
「あなたみたいな患者は二度とゴメンよ! 舞い戻ったら絶対に追い出してやるから」
 アガサはそこで口を閉じると、やはり照れくさそうに笑った。

     †

 キィッと錆びついた音を立てるピックアップトラックに乗り込んだわたしたちは、ラクロスのメインストリートからグランド・ブラフを目指して走る。ちょうどランチタイムに差し掛かるこの時間帯の大通りには縦に長い列が続き、一切の寄り道を許さないかのようにまっすぐとグランド・ブラフに向かって伸びていた。
「今日をずっと楽しみにしてたよ」
 ランディはハンドルに片手を置きながら、ポケットから取り出した煙草を咥えて火をつけると、煙を大きく吸い込みゆっくり吐き出して言った。
 ダッシュボードの上に放り投げた白と緑のパッケージを見たわたしは、それが以前チャーリーがわたしの気を引くために吸っていた物と同じだということに気づいた。
「それ……あなたの吸ってる煙草はなんていうの?」
 ランディは不思議そうに一瞬視線を寄こすと、再び視線を前に戻して言った。
「クールって銘柄だよ。でもアタシが思うに、エレノアに煙草なんて似合わないと思うよ?」
「わたしもそう思う。そうじゃなくて、チャーリーが吸ってた煙草と同じなの、それ」
 ランディには何度か電話で連絡をしている間にチャーリーのことは話していた。既に彼女がこの世を去っていることも知っている。
「Keep Only One Love」
 ランディが突然つぶやいた。訊き直すと、彼女はまた煙を吐きながら答えた。
「一つの愛を貫く。その頭文字をとってクールなんだってさ。チャーリーらしい気の引き方じゃないか」
 それを聞いて窓側に座っていたアガサは、大通りに一列に並ぶ渋滞の代わり映えしない景色をつまらなそうに眺めながら鼻を啜った。
「……うん」
 滲む視線の先――わたしも遙か前方に見えるグランド・ブラフを遠く見つめた。

 沈黙が流れる車内では煩いエンジン音だけがやたらと耳に付いた。そんな沈黙に堪えられなくなったアガサが思い出したように口を開く。
「ところで、私たちのランチは用意してあるのよね?」
 たしかに毎週末グランド・ブラフに出掛けるときは、ママが必ずストロベリージャムたっぷりのタルトを焼いてくれたって話はしていたけれど……。思ってもなかったアガサの催促にわたしが驚いていると、彼女は未だかつて聞いたこともないような大きなため息を吐いた。運転席ではランディがハンドルを叩いて大笑いしている。
「笑い事じゃないわよ! 大体、誰のせいでランチを食べ損なったと思ってるのよ?」
 食事をお預けされた犬のように身を乗り出してアガサが当たり散らすと、ランディはさらに大笑いしながらトラックを道路脇に寄せて止めた。
「後ろの荷台に、ナトリウム液に浸して食べるヌードルがあるよ。それで我慢だね」
 苦しそうにお腹を抱えながら話すランディに、アガサはご立腹。車内はさっきまでの静寂が嘘のように賑やかな笑い声で包まれていた。
「なぁ、せっかくの楽しいピクニックにギターまで揃ってるんだ。目的地に着くまで歌ってくれないか?」
 ランディの提案にアガサも便乗する。
「そうよね、ガイドを引き受けるからには、お客様を満足させるのも大切な仕事のうちよね!」
 二人の矛先がわたし一人に集中すれば、たちまちわたしは吊るされてしまうんだ。
「わかったわよ!」
 外気の肌寒さを思い、自分の肩を抱いて身体を震わせると、ランディがブランケットを投げて寄こした。
 そしてわたしは一人、膨れ面で荷台に移り、あの頃を懐かしんでママを想う。
 グランド・ブラフの帰り道に、ママが歌ってくれたあの歌を想う。

 でも、あの歌は帰り道までお預けよ。
 だからわたしはギターを取り出して、愛の歌を唄うわ。

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

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