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「&So Are You」第七話

夜更けのドランクモア


 僕たちは一旦ハンナを家まで送った。日が落ちる頃、再び迎えにいくと、ハンナとロザリーが揃って中から出てきた。

「じゃあ、行ってくるわ。遅くならないようにするけど、おばさんは先に寝ててね」

 ハンナが気遣うが、それとは別の心配をしているらしきロザリーが、僕たちに目をやる。何が不安の種なのかは一目瞭然だ。そんな彼女に、グレッグが横から冗談めかして言った。

「大丈夫だよ、ロザリー。ベンが狼になったら、俺の黄金の右で彼女には指一本触れさせやしないからさ?」

「黄金かい? そこは銀の弾じゃないのかい」ロザリーはぎこちなく微笑んだ。
「私だって子供じゃないんだから、平気よ」

 ロザリーの様子がいつもと違っていた。ギャングあがりの僕たちの信用は無いに等しいのか?――そう感じて、少なからず僕は傷ついた。

 トラックに乗り込む。見送るロザリーの硬い表情が気にかかり、安心させようと近づくと、彼女は顔を近づけて不安そうに言った。

「ハンナのことを頼むよ」

 ロザリーの許へ元気な姪がやってきてからというもの、年老いた彼女は以前に増して出歩かなくなっていた。今では、日用品の買い出しもすべてハンナだ。

 よそ者に対して閉鎖的なこの町で、たとえそれが古くから住むロザリーの血縁者だったとしても、ハンナはきっと息苦しい思いをしているに違いなかった。

 天真爛漫で、底抜けに明るい彼女が、こうして伸び伸びとしていられるのは、叔母である彼女と僕たちの前でだけくらいだろう。好奇の視線で溢れる酒場にハンナを送り出す――大事な姪を案ずるロザリーの気持ちは当然だった。

「任せて、エイムスさん」

 トラックの窓を開け放ち、なにもない荒野を四〇分ほど行くと、ドランクモアのギラギラとしたネオンが見えてくる。町からそれなりに離れてはいたが、むしろそれが好都合なのか、店はいつも大繁盛で、店に着くころにはすでにたくさんの車が店の前に停められていた。

 スイングドアを開けて店内へ入ると、木造の建物の中は大勢の客たちで賑わっている。薄暗い照明は、床にこぼれた汚れを隠すのにおあつらえ向きだ。洒落たロックンロールは流れない。名もないバンドが日替わりで、田舎特有のカントリーを掻き鳴らす味のある店だ。もちろんビリヤード台もない。

 客は、ただ安い酒を浴びるように飲み、騒ぎ、バンドにビール瓶を投げつける。そんな海賊のたまり場のような陸地の沈没船。海を見たこともない僕が、思わずそう例えたくなるくらい滑稽な意味で。

 店に入るとすぐに、グレッグが落ち着きなく辺りを見渡した。

「ジル!」

 さっそく獲物を見つけ出したようだ。

「あら? グレッグ、久しぶりじゃない」

 この店で働くジルは、グレッグの今一番のお気に入りだ。真っ赤な口紅に真っ赤なハイヒール。ズラッと下までボタンの並んだひと昔前のノースリーブのワンピースを着て、いつも胸元のボタンを外している。

 絞りすぎのウエストには白いベルト。しなだれた髪をオレンジ色のスカーフがゆるく纏う。閉店後に売春婦として仕事をしてるんじゃないかと噂されるほど派手な装いでいつも客に愛想を振りまいていた。

「じゃあな、お二人さん! 俺は彼女を口説いてくるから、課外授業は二人だけでやってくれよな!」

 そういってグレッグは奥のカウンターへと歩いていった。

「呆れた! 彼っていつもあんな感じなの? あれじゃあ一緒に飲みにいっても独り飲みと変わらないじゃない」

「悪いね、あいつはいつも自然体すぎるから……えっと、なに飲む? サミュエルアダムスでいいかな」

「ビール? そうね、そうしようかな。カクテルって感じの店でもないわね」

 バーテンが片手に2本ビール瓶をつかみ、器用に栓を抜くとこちらへ手渡した。グラスをひとつ頼むと、バーテンは無言で応え、空のグラスをひとつこちらへ滑らせる。
 サミュエルアダムスの青い王冠がグラスに弾かれて、床に転がるのを見てハンナが苦笑した。

「ねえ、今度ボウリングに行かない?」
「いいよ。ところでハンナ、君はいつまでこの町にいるの?」

 カウンターに代金を置いて、僕は訊ねた。ずっと気にかかっていたことだ。

「あら、ベン? あなたも早く私に町を去ってもらいたいの?」

 気持ちを見透かすような意地の悪い笑顔だ。質問に質問で返すのは彼女の十八番だった。

「い……いや! そういう意味じゃなくてさ!」

 しどろもどろの僕を見て、ハンナはなぜかうれしそうに話題を変えた。

「あなたたちって最近いつもあの湖に入り浸ってるけど、収穫が終わるとお仕事はしばらくお休みなの?」

 不思議に思うのも無理はない。自分でさえ不思議なくらい、仕事に身が入らずサボりまくってる毎日なんだから。

「そんなことはないよ。君にはわからないかもしれないけど、もともと農園の仕事に休みなんてないんだ。収穫が終わったって他の農場の手伝いや、機械類のメンテナンスもあるし、次のシーズンのために土の調整もしなくちゃならないからね。でも、そんなの退屈すぎてつい足が遠退いちゃうんだ」

 久しぶりに口から出た〝退屈〟という言葉が、妙に浮ついて感じられた。抱えていた荷物から、その言葉が抜け落ちたみたいに。

「仕事もしないであの場所で寝転がってるだけなんて時間がもったいないわ。そうだ、ベン! あなたも絵を描いてみたら?」

「絵を⁉ 僕が⁉」

 突拍子もない提案に、思わず吹き出す。自分で言うのもなんだけれど、絵心なんて僕にはカケラもない。やることは大雑把で、しかも不器用。誰がどう見たって、緻密な作業を必要とする芸術家に最も縁遠い存在だ。

「そうよ! 細かい技術は私が教えてあげるし、夢中になれる良い趣味だと思うわ」

 ハンナは僕の反応を無視して、うれしそうに話し始める。

「人はなぜ絵を描くのかわかるかしら。誰に教えられることがなくても、物心ついたときから人は絵を描くわ! 逆に大人になるにつれ、描くことを止めてしまう。それは自分以外のことに染まっていってしまうからよ。これは私の持論だけれど、小さな子が最初に描く絵は大体がその両親で、大好きなママやパパの笑顔を明るい色で紙いっぱいに描くの。顔の大きさや笑顔の大きさがその愛情の大きさそのままだったりするものよ。逆に悲しくも、幼くして心を病んでしまう子は、自分の描いた絵を黒く塗りつぶしたりもするわ……。絵を描くという行為は、自分の心をそのまま映し出す作業のようなものなのよ」

 ハンナは狭い丸テーブルの上で身を乗り出すように語った。楽しそうに話すかと思えば、途端にしんみりとする。彼女のためにグラスに注いだビールの泡も、口をつけられぬまま消えいってしまうほど忙しく話し続けた。

「私はね! テンペラという画法を好んで使うのだけれど、アンドリュー・ワイエスという画家がいるの! 彼はね、フィラデルフィア郊外のチャッズ・フォードの生まれなのだけれど、心身が虚弱でほとんど学校教育を受けていないのよ。自宅以外には、メイン州クッシングの別荘でしか絵を描いてないわ。彼はそこで、下半身の不自由なクリスティーナという女性の絵を、二〇〇枚近くも描いているのよ。アメリカを代表する、写実主義画家だわ! 写実主義というのはね、現実を空想によらず、ありのままに捉えようとする主張のことよ! リアリズムとも言うわ!」

 聞いたことがあるような言葉から、専門用語まで交えて丹念にしゃべり続ける。どこで息継ぎをしてるのかわからないほど流暢で、ラジオジョッキーのようだ。

「ああ、素晴らしいわ……。〝クリスティーナの世界〟はMoMAにあるのよ! 樹木のない、ほとんど黄褐色の草原に覆われた大地に横たわって地平線に見える灰色の家や隣接する小さい離れ、納屋を見上げているの……。
 大部分の人が絶望に陥るような境遇にあるなかで、驚異的な克服を見せる彼女の姿を正しく伝えることが、ワイエスにとっても挑戦だったと、初代館長のアルフレッド・バーへの書簡で書いているのよ」

「ちょっと待てよ、ハンナ! さっきから君が何語を喋ってるのかさっぱりわからないし、僕には絵なんて無理だ!」

 ハンナの蘊蓄の腰をどうにか折った僕は、ビールを一気に飲み干した。

「ひどいわ! どうして止めるのよ? 私はこの手の話は専門だから、明日のお店の開店時間までだって、ずっと話し続けられるわよ?」

 ハンナは口と目を大きく開いたまま、信じられないといった顔をして僕を見た。冗談じゃない。こんな理解不能の外国語を延々と聞かせられたら、脳みそがどうにかなってしまう。

「僕には芸術だのは向かないよ……絵心だってないし、不器用なんだ」

 そのとき、店に入って来た男たちがこちらに声をかけた。

「よお! ベンジャミンじゃないか。今日は珍しくグレゴリーと一緒じゃないのか?」

「ああ、君たちか」

 振り返るのも嫌だったが、適当に挨拶らしきものを返す。ニヤニヤしながら近づいてくるこいつのことを、実は僕もよく知らない。隣町に暮らしているらしいことだけはなにかで聞いた気がするがどうでもいい。

 こいつは金魚のフンみたいな男を二人引き連れて、よくこの店で飲んでいる。自惚れの強い目立ちたがり屋で、金持ちのボンボンなのか《《フン》》相手にいつもちやほやされている。

 わざとらしい自慢話でいつも高笑いを撒き散らす――いわゆる糞野郎だ。隣のテーブルで飲んでいたとき、そのあまりのくだらなさに思わずグレッグが茶化したのがきっかけで一度殴り合いの大喧嘩になった。

 それからというものなるべく関わらないように過ごしているが、こいつらはしつこく僕たちを目の敵にして絡んでくる。〝キレ〟の悪さはさすがだね。

「へえ! なかなかの女を連れてるじゃないか、ベンジャミン? お前にお似合いの田舎臭い女だよ!」

 糞野郎がハンナの顔を覗き込んで鼻で笑うと、それを煽るように、金魚のフン二人が耳障りな高笑いをドランクモアに響かせた。

「ハンナ、席を移ろう」

 関わらないほうが賢明だ。僕は場所を移ろうとしたがすでに遅く、早くもスイッチの入ったハンナが糞野郎どもに突っ掛かっていた。

「なによ! あなたたち、いくら友達だからって『礼儀』って言葉を知らないのかしら? それに私はこの町に観光で来てるだけで、生まれも育ちもフィラデルフィアよ! 少なくとも、今のあなたたちより良識を持った人たちの住む街だわ!」

 ハンナ……そいつらは友達でもなければ、名前すら知らない奴らだ……。

 かつてこいつらと揉めたとき、警察に厄介になってしまった僕たちは店からも警告を受けていた。次に揉め事を起こしたら出入り禁止だと。心のオアシス〝ドランクモア〟まで奪われてしまったら、僕の人生にはなにも残らない。あるのはトウモロコシ畑だけだ……。

「フィラデルフィア⁉」糞野郎はいやらしい笑みを浮かべて、ハンナを蔑むように見つめる。
「なるほどね、都会から払い下げになった売女が選んだのが、ベンジャミンってわけか。さぞ、あっちの方も上手いんだろうな? なんてったってフェラデルフィア出身なのだから!」

 糞野郎が、したり顔で見下すように僕たちを見て、口にアレをくわえる仕草をすると、フン二匹が輪をかけてはやし立てた。次の瞬間、顔を真っ赤にしたハンナは、手元のグラスに入ったビールを男の顔に浴びせかけていた。
 なにが起こったのか、男は事態を把握すると、怒りを露わに体を震わせた。

「あんたみたいのをゲス野郎って言うのよ!」

 ハンナがそう言い終わらないうちに、僕は男に飛び掛かり、顎の下に拳を当てると、続け様に上唇と鼻の間めがけて力いっぱい殴りつけた。男がそのまま白目を剥いて床に崩れる。

「違うよハンナ、こいつの名前は糞野郎さ」

 僕の敢闘ぶりに、ハンナが高揚した表情をみせたが、一瞬のうちに暗転する。僕は《《フン》》の片割れに後ろから羽交い締めにされ、さらにもう片方の男に左頬を殴られた。

「ベン!!」

 口の中で何かが潰れた。悲鳴が聞こえたが、痛みは微塵も感じなかった。それくらいハンナを侮辱されたことに血がのぼっていたし、なにより父さんの鉄拳に比べたらこんなもの痒いくらいだ。

 さてどうしてやろうかと冷静に考えていると、次の瞬間、鈍い音と共にガラスが床に散らばり、僕の体は自由を取り戻していた。

「アリャ? ひょっとしてお邪魔でしたか?」

 振り返ると、割れた半瓶を握りしめたグレッグが笑いながら立っている。僕を羽交い絞めにした男は、ガラス瓶で頭を殴打され、床に転がっていた。

 残りは……。姿勢を立て直し、僕を殴りつけたフンの片割れに向き直って睨みつけると、ハンナが僕の前に立ちふさがり、そいつの股間めがけて蹴り上げていた。

「正当防衛よ! こう見えても私、護身術を習っていたのよ!」

 片割れは、子犬が蹴っ飛ばされたような悲痛な叫び声をあげて床にうずくまり、這いつくばって脂汗を垂らす。傍らで見ていた僕もグレッグも、思わず顔が歪むほどだ。同じ男として、多少は同情せざるを得ない。

「俺の店で揉め事を起こしてる奴はどいつだ!!」

 大きくなった騒ぎに店のマスターが叫んだ。カウンターから飛び出し、ギャラリーを掻き分け近づいてくる。

 グレッグがその場に身を屈めて言った。

「まずいぜ! 見つかったら俺たちは永久追放だ! ずらかろう!」

 這いつくばるほど姿勢を低く保ち、こそこそと店を出る。店内ではマスターの罵声がまだ続いていた。外へ出て中腰に戻り、笑い声を漏らしながら停めてあるトラックまで走る。

「ベン! 早く車を出すんだ! 見つかったら二度とこの楽園には来られなくなるぞ!」

 運転席に飛び乗りキーを回す。グレッグがハンナを先に乗り込ませ、自分も続くと「出せ! 出せ!」と僕を急かした。狭い車内で、サンドイッチになったハンナは可笑しそうに笑って言った。

「二度と楽園に戻ってこられないって、まるでアダムとエヴァのエデンの園みたいね!」
「なんだい? それ?」
 大きくハンドルを回し急発進する。彼女は少しだけ押し黙ると、再び大声で笑いだした。

「ハンナ? 大丈夫か?」グレッグが心配そうに彼女を見る。
「ごめんなさい! どっちがアダムでどっちがエヴァだか想像したら可笑しくって……!」

 ハンナは苦しそうに上体を屈みこませ、口を覆って必死に笑いを堪えていたが、やはり我慢しきれないのか噴き出して大笑いし始めた。

 一体なにがそんなに可笑しいのか――さっぱりわからなかったけど、この町に来てからこんなにも豪快に笑う彼女を見るのは初めてだったから、自然と僕たちもつられて笑い続けた。

「ジルー……なあ、いいだろ?」

 あぜ道を走る帰りの車内では、すっかり酔いの回ったグレッグが寝言を言いながらハンナに抱きつこうとする。そのたびに彼女はグレッグの顔を窓に押し付けていたが、終始機嫌がよく、楽しそうにしていた。

「今日ほどエキサイティングな日はどれくらいぶりかしら? とても刺激的で楽しかったわ! ところで話の続きだけど、どう? ベン、私と一緒に絵を描いてみない?」

 一度逸れた話題が急にブーメランのように戻ってきて、僕は反射的にこう返した。
「話したろ? 僕には絵心もないし、なにより不器用だって」

 でもそのときふとあらぬ考えがぎる。――絵を教えてもらう口実に、もっと彼女と一緒にいられるんじゃないかって。

「絵ってね、心で描くものだと私は思うの。技術ももちろん大切だけれど、なにを描くかは、きっと心が決めてるんだと思うわ」

 イマイチ理解ができないでいる僕の隣で、ハンナはおだやかに続けた。

「つまりね、あなたは絵を描くために必要な土壌をすでに持っていて、しかもそれがとても豊かだっていうことよ。良い画家というのは、土が豊かでなければなれないものなの。私、人を見る目はあるんだから」

 ――これは彼女なりの誉め言葉なんだろうか? 

「たしかに、ほとぼりが冷めるまではドランクモアにも行けそうにないし、君がそう言うなら、退屈凌ぎに挑戦するのもいいかもね」

 僕が言い直すのを聞くと、ハンナは座席から背中を起こして自分のことのように大喜びした。

「すごいわ! ベン、一歩前進よ!」
「前進?」

 何が前進なのかわからなくて僕は訊いたが、それには彼女は答えなかった。

 荒野を揺られながら家路を走らせる。ハンナはフロントライトが照らす路筋をまっすぐ見つめていた。聞こえてくるのは、軋むトラックの音とグレッグのいびきだけ。しばしの沈黙をおいた後、ハンナが口を開いた。
 てっきりさっきの質問に答えてくれるのかと思いきや、彼女はドランクモアで語っていた美術の蘊蓄話を再びし始める。ワイエスがどうとか、クリスティーナって障害を負った女性がどうとか。

 でもそんな〝蘊蓄〟を語るときの彼女の表情は、とても豊かでころころとよく動いた。話の内容は理解できないにしても、彼女が芸術に、特に絵画に夢中なんだってことは僕にだってわかる。

 それほどまでに、このときのハンナはキラキラと輝いて、とても魅力的だったんだ。


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