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ラストエンペラーの弟夫妻が住んでいた⁈ 「千葉市ゆかりの家」へ行こう

1988年に日本で公開された有名な映画「ラストエンペラー」。

公開からすでに30年近く経過している現在でも、歴史映画の「名作」として多くの人から支持を得ている映画で、イタリア人のベルナルド・ベルトルッチ監督が4年もの歳月をかけて手がけた大作です。

この映画は、中国最後の王朝である「清王朝」の「愛新覚羅溥儀」(あいしんかくらふぎ)の激動の人生を描いた映画ですが、その溥儀の実弟である「愛新覚羅溥傑」(あいしんかくらふけつ)も、歴史的に重要な人物であり、「日中友好の懸け橋」に務めた、日本の歴史に大変関わりの深い人物なのです(溥傑は、映画「ラストエンペラー」でも、いくつかの場面で登場しています)。

実はこの溥儀の弟夫妻が暮らしていた家が、「千葉市稲毛区」にあるのをご存知でしょうか。

この記事では、中国のラストエンペラーである溥儀とその弟・溥傑の激動の人生をもう一度おさらいしつつ、弟夫妻である溥傑と嵯峨浩が新婚時代に暮らしていた、稲毛区にある「千葉市ゆかりの家・いなげ」の見どころをご紹介していきます。

ラストエンペラー「愛新覚羅溥儀」の歴史をおさらいしてみよう

ゆかりの家2

中国最後の王朝「清」の王である溥儀は、1908年、わずか3歳で皇帝として即位します。その後6歳にして辛亥革命が起こり清が滅亡、退位させられ、数年後一時的に復位したものの、1924年のクーデターにより再び紫禁城からの退去を命じられ、天津の日本租界に身を寄せます。

そして1931年、あの歴史的な「満州事変」が起こります。

この頃、溥儀は清朝再興を目指して「満州国」の皇帝に即位しますが、結局、満州国は関東軍の「傀儡国家」であり、実際には溥儀にはほとんど実権を与えられず、称号を与えられただけの皇帝でした。その後、満州国が崩壊すると溥儀は弟の溥傑と共に戦犯として政治犯収容所に収容され、1960年に釈放、1967年に一般人として人生の幕を閉じます。

「愛新覚羅溥傑」(あいしんかくらふけつ)がたどった、激動の人生


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このような数奇な人生を歩んだ兄の溥儀と同様、実弟である溥傑も激動の人生をたどりました。

溥傑は、幼少時代から紫禁城を出ることができず、自由がなく孤独であった溥儀の良き理解者であり、長年にわたって溥儀に仕えました。

1924年のクーデターの際に溥儀と共に日本大使館に身を寄せた後、日本語を学んで、日本の学習院高等科(現在の学習院大学の母体となった学校)へ留学します。1932年、兄の溥儀が満州国執政になった翌年に学習院を卒業、現在の千葉市稲毛区作草部にあったとされる陸軍士官学校に入学し、1935年には満州国陸軍に入隊します。


兄の溥儀とその夫人婉容(えんよう)の間には子供がいなかったこともあり、士官学校入学後、溥傑は日本側より見合い話をすすめられ、天皇の遠戚である名家・嵯峨公爵家の娘である「嵯峨浩」(さがひろ)と1937年に結婚することとなります。

この結婚は完全な政略結婚であったものの、見合いの席で2人は互いに好感を持ち、2人の仲は夫婦円満であったと伝えられています。

夫妻は稲毛に新居を構え、半年ほどここで生活をしていましたが、その後2人は満州に移ることとなり、1943年には陸軍大学校に入校のため再び東京に住居を移し暮らすこととなります。そして1944年、日本に長女の彗生(えいせい)を残して満州に戻りますが、1945年に満州国崩壊と共に、溥儀と共に戦犯として政治収容所に収容されてしまいます。1960年に釈放され、妻の浩と再会できますが、この頃中国は文化大革命が起こっており、溥傑は再び激動の波に翻弄されます。


その後は7回にわたって日本へ来日し、日中友好の架け橋として活躍しました。

また、書家としても有名であった溥傑は、生前にたくさんの書画を残しており、「千葉市ゆかりの家・いなげ」にもその複写が残されています(直筆の書は郷土博物館にて保管)。

溥傑夫妻が束の間の幸せな新婚時代を過ごした
「千葉市ゆかりの家・いなげ」

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明治以降、昭和30年なかばに埋め立て地になるまで、稲毛は海辺の保養地、避暑地として多くの別荘が立ち並んでいました。溥儀の弟である溥傑と浩夫人は、1937年に結婚した後、約半年間という短い間でしたが、この別荘で新婚生活を送っていました。

あのラストエンペラーの弟夫妻が暮らしていた建物として有名であるということはもちろん、この別荘は、「海辺の保養地としての稲毛」の歴史を伝える貴重な和風別荘建築として、千葉市地域有形文化財に登録されています。

当時は目の前に海が広がり、きっとすばらしい眺めだったのでしょう。

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屋敷は、L字型の主屋と庭の離れから構成されています。

特に豪華な装飾などはありませんが、アンティークな腰付障子、菱格子の欄間など、古いながらも細かな部分までこだわった上品な造りの和風建築と、手入れされた美しい庭の風景が、静かで心落ち着く空間をつくり出しています。

屋敷のところどころに、浩夫人との幸せな日々を感じさせる新婚時代の写真や、溥傑の書画の作品が飾られています。

屋敷内の説明書きによると、溥傑は来客があるたびに相手が待ち時間に退屈しないよう、直筆の詩や書を用意していたんだとか。すごい気配りですね!

以下の詩は、平成2年に溥傑本人から千葉市へ贈られた作品です。隣には日本語訳も展示されています。

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『再び千葉海岸稲毛旧居を訪れて感あり

過ぎ去った歳月を顧みて再び千葉に来る。世の中はすでに大きく変わっているが、余齢をもって稲毛の旧居を訪れる。新婚当時は琴瑟相和して仲が良く、まるで夢のようだった。短い期間ではあったが想い出すとつい我を忘れてしまうほど幸せだった。

愛しい妻の姿と笑顔は今は何処に。昔のままの建物と庭を見ていると恋しい情が次々と湧いてくる。
君と結婚したその日のことが目の前に浮かび、白髪いっぱいになった今にかつての愛の誓いを思い出すにはしのびない。
再び千葉海岸稲毛旧居を訪れて感あり二首を詠む。』 溥傑

何度かの来日の際、溥傑がどのような思いで新婚時代に暮らしたこの別荘を訪れていたのか、この詩を詠むことでわかりますね。

千葉市地域有形文化財である
「千葉市ゆかりの家・いなげ」に行ってみよう

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時代の波に揉まれながらも、稲毛の地で幸せな時を過ごした溥傑の息遣いが聞こえてくるような貴重な施設。

「千葉市ゆかりの家・いなげ」は、国道14号沿いにある浅間神社大鳥居に隣接しています。

お近くに来られた際はぜひ立ち寄られてはいかがでしょうか。

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