すみっコぐらしの映画を4回見ました。(ネタバレ考察と感想)

語りたいのにネタバレしないとただうるさいひとになるのでついにこれを使う。

もともと1回は見に行く予定ではあった。もちろんSNSの大喜利よりはるかに前からである。
理由はわりと単純だ。
・そもそも井ノ原快彦のオタである
・サンエックスは結構すき(リラックマものには軽率に手を出す)

井ノ原の声フェチであるのでナレーションとかご褒美ですねくらいの感じでいました。
試写会で触りすぎて表情を曇らすとかげとかエビフライの尻尾が気になるとかへーかわいー程度に心に留めていた、すみっコの設定もろくに知らないただのジャニオタでした。

公開初週末は箱根に旅行行ってたので行けませんでした。そもそもそんな急いで行こうともしてませんでしたし。
そうしたら週明けにどうもSNSが騒がしい。検索してみたらどうやらオタクの人たちに刺さって独特の表現から意外性を刺激させてどんどん足を運ぶひとが出てきていた。
えー…気になるじゃん…推しが関わったものが好評だと嬉しいオタクは気になるじゃんと思ってたらその日仕事を早めに上がれたので、19時台のチネチッタにすべりこんだ。

そもそもすみっコぐらしでストーリーとか想像もつかなかったので、予習もなしでした。喩えに出されてた作品も見てないので余計なイメージもつきませんでした。

見初めてすぐ気付いたのは「あっ確かにこれはリラックマを送り出してきたものの仕業だ」ということと、井ノ原との親和性の高さである。

子供受けしやすいゆるかわな見た目ながら設定は切なく、リアクションは大人。
すみっコであるということでふんわり納得されがちだが、すみっコ達はリアクションがとても大人なのである。
そのせいで大人も感情移入しやすいことに気付く。
井ノ原との親和性だが、彼もお茶の間では癒し系だとかイクメンだとか(そんな売りはしたことないのだが)ふんわりした印象持たれてるが案外色々抱えて乗り越えての今があり、隠してるわけではないが気付かれにくい闇がある。
なんにでも自分の顔を書き込んで狂気のキャラ造成も実は似ている。
しかしあの声音と冷静さとポンキッキお兄さんだった歴史はそんなことを微塵も気付かせずにすみっコたちを解説、誘導、ツッコミしてゆく。

初回の感想は泣いたのだが、号泣というより静かに涙がぽろぽろ流れる感じだったのが、実は4回目の今日が1番泣いた。
その理由とともに映画すみっコをネタバレしながら紐解いて行きたい。

まずはポスターである。
すみっコぐらしを映画にと言われても正直ストーリーとか想像できない人も多いだろう。
だからこそ広告となるポスターやキービジュアルはインパクトを重視したものになりやすい。そのためにかえって内容と乖離した謎のキャッチコピーがついてしまったことも多々ある。
だが、すみっコぐらしは映画の内容そのものもをそのままキャッチコピーとポスターに持ってきた。
未見のひとが見ても意外性やインパクトを受けるわけではないだろうそれは、見た後に「あああぁぁぁあぁあああ!!!」と映画の記憶が駆け巡ってしまうありのままさだ。
むしろ「ポスターがネタバレじゃねえか!!」くらいの勢いである。
ここに、このすみっコぐらしの映画プロジェクトが製作側がプロモーションまでしっかりハンドリングしてトータルコーディネートがブレてない証拠として残っている。
こういう大人の事情に振り回されず視聴者を決めつけない姿勢は間違いなく良質な作品を生む。

こっから先はエンディングまでがっつりネタバレありです。
ここでかつての糸井某の某ゲームのキャッチコピーを置きましょう。

「エンディングまで泣くんじゃない」

泣けるという評判を受けて見に来た人は「前半は眠い」という人もいた。
だがここに観察力の差もあると感じた。
大人でもクスッとしてしまう展開は「当事者は至って真面目だからこそのリアルさがおかしい」というものに実はかなり近い。
にもかかわらずそこまでわからないお子様も素直に笑う、そういう二段仕込みなのである。
すみっコたちは子供にわかりやすいようにオーバーリアクションはしない。言葉も最小限だ。
水に飛び込もうとするトンカツや海に落ちそうになるにせつむりを必死で止めたり助けるのも細かい。
落ち込んだすみっコを励ますバディたちはそっと背中を叩くとか、何かをあげるとか、とても地味だ。
また前半のほのぼのターンは、すみっコたちの関係性や性格を丁寧に知らしめてくれる大切なパートだ。
似ているようで結構違うすみっコたち。
それを「無理やり有名昔話の主人公にさせられた」すみっコたちがアクロバティックに物語を再現しかけてはひんまげる過程で、クスリとさせられながらじんわりと終盤に向けての伏線や、思い出の積み重ねを行う。
このターンが平和で楽しく暖かく優しくあればあるほど、後に効いてくるのである。
あかずきんにさせられたとんかつが食べられそうになって「是非!どうぞどうぞ」と迫るせいで逃げられるシュールな展開や、マイペースなタピオカ達が実はよく見ると自分たちが生まれた時代と背景を表した行動をとっていたり(EXILEのウェーブとかパラパラとかジュリアナとか、彼らは今のブームのタピオカとは別のさらに前のブームの残されものだということがわかる)
その過程ですみっコたちは「すみっコとして似たもの同士助け合っていきているけど、あくまでそれぞれの個であり、実はより似たもの同士と強く結びつく」というとんかつとエビフライのしっぽや、とかげとニセつむりとかのバディの性質が、ぺんぎん?がひよこ?に対して強い仲間意識持つにいたる心理がするっと入ってくるのである。

各所でひよこ?と接するすみっコはもれなく優しい。その優しい中で特にぺんぎん?は自分のことのように見ているのもとてもわかる。

ひよこ?が灰色なのも、見事なミスリードだった。「あっわかったそういうことか」って一回納得させてから突き落とすことで、その瞬間他人事だった観客はすみっコやひよこ?と感情を重ねてしまう。無意識に。

今度こそ今度こそ大丈夫だと思ったのに

優しい世界だからこそそれは深く刺さる。
誰も悪くない。誰のせいでもない。
絶望に対してひよこ?は泣き叫んだりはしない。本当にショックを受けた時は感情も凍りつく。静かに沈んでゆくひよこ?の痛みは見ている人になによりも届く。

たどり着いた真っ白な世界。
ノイズとともに消えそうなひよこ?。
自分の存在を、思い出してはいけない事実を思い出してしまったひよこ?。

それが明かされる時、音楽は静かに流れ、ナレーションは語り部であった本庄まなみに引き継がれる。何故ならそれは絵本の中の話だから。
静かに捲られる白いページ
その瞬間カンのいい人は察してしまう。
ハードカバーの本の最後のページは必ず遊び紙とともに白い。
その白いところに落書きをした経験のある人は多いだろう。

そのシーンの前に、先に絵本の外に戻るおばけをぺんぎん?とひよこ?は目撃している。
その際におばけがつけていた絵本のせかいのお花が外れて落ちてくるのをひよこ?だけが見ている。

みんなですみっコとして暮らそう!となったときひよこ?のなみだで空が開く。それを見てあれで帰れる!とぺんぎん?が気付くシーンは、絶妙に回想が「花が落ちるシーン」の手前で切れる。
それに気付いていないことを示唆している。

悩んだねこがやみくもにつめとぎしたせいで出てきたいろんなせかいのパーツを見て、これを積み上げて帰れる!!と思いつくすみっコ。これも全てのパーツがどの世界から漏れてきたのかわかるように実は作られている。
その為に、すみっコが旅してきたそれぞれの物語は全て「絵柄のタッチを変えて描かれて」いるのだ。何気なく世界観に合わせたタッチになっていることで、見ているその瞬間にはそうと気付かせずに、ここまで計算されているのだ。これは本当にすごい。前半の可愛く面白いドタバタ活劇を見ながら、「今まで旅したせかいのすべてに助けられて」すみっコたちが帰ろうとしていることがわかるようになってる。

この塔が出来ていく過程の感動もカタルシスも音楽と演出が見事だ。ハッピーエンドにむけてのクライマックスに、流した涙が喜びの涙に変わってゆくその絶頂期に、天井部にいるひよこ?に本物の現実が襲い掛かる。
胸にふわっと残っていた嫌な予感が一気に吹き出し、ひよこ?は自分の末路を悟る。

ここでやはりひよこ?は大きいリアクションはしない。何も言わない。
喜んで登っていくすみっコたちは、1番上にいたはずのひよこ?がいつのまにか下に降りてることに気付く。
早くおいでと呼んでもひよこはただ黙って首を横に振る。
ひよこ?は語らない。何故行かないのか。
行けないということを言ってしまったらすみっコたちは戻ることをやめてしまうかもしれない。自分を置いてゆくことに罪悪感を感じるかもしれない。
だから「自分の意思で残る」と意思表示したのではないか。
そこまで考えている可能性も大きいと思うのはここまで描かれてきたキャラクターたちの繊細な気遣いゆえだ。
慌てて迎えに行こうとするぺんぎん?で塔は傾く。ひよこは小さな体で身を挺して必死で支える。すみっコたちとの思い出を思い返しながら、涙をためて。
ひよこ?がそこまでできたのは、すみっコたちと合う前にただ戻るわけじゃないからじゃないだろうか。
何もなかった、誰もいなかったひよこ?にはもうすみっコたちとの思い出がある。身を挺してでも送り出したいと思わせるほどの絆がある。
もう何者でもないひよこ?ではないからだ。

しかしやはりひよこでは支えられず崩れようとしたとき、絵本で出会った鬼やオオカミたちが助けにきた。
絵本の中に横たわっていた物語の仕切りがすべてなくなり、物語の全てが、すみっコたちを支える。
見送るひよこはただただ静かに目を細めて涙をためながら笑顔で見上げる。
すみっコで唯一ひよこ?が通らないことに最後に気付いたぺんぎん?もその想いを受け取って涙を流しながら光に帰ってゆく。

ひよこ?と物語のキャラクターたちが見上げる空から、すみっコたちと一緒に通れなかった花びらが降ってくる幻想的なシーンは、どうにもならない残酷な現実と、それでもかけがえのないものを確かに手にして決断した尊い意志と、決してひとりではない仲間たちと、やるせなさと救いと感動が混ざって整理のできない感情を完璧に包み込む。

そしてエンディングである。
戻ったすみっコたちは開かれた絵本の最後のページに書かれたひよこ?に気付き、すべてを察する。
いち早く知っていたぺんぎん?は涙をおさえられない

すべてなにも説明はしていない。
立ち振る舞いで、行動で、演出で、
全部が伝わるようになっている。
だからそれを受け止められる人は感情移入からその心の痛みに想像の翼を羽ばたかせる。
誰かが犠牲になって死ぬとかではない。
あの誰も悪くない、誰もが優しい世界だからこそ、そのささやかな夢が叶えられなかったことに心が苦しくなるのだ。
お互いを想う気持ちに涙するのだ。

そしてその後のアフターフォローまで含めてこのストーリーは完結する。
すみっコたちはひよこ?の書かれたページに新たな1ページを書き加える。
みんなで沢山の文房具をちらばせながら、
作りあげたのはものはこういうものだ。

描かれたひよこ?に友達のしるしのお花を書き加え、
飛び出す絵本としてのお家を作り、
仕掛けで咲きほこる花畑を作り、
そしてすみっコたちを「ひよこのかたち」にして書き加える。
友達のしるしのお花をもちろんそえて。

これを「あくまでうつしみであって、ハッピーエンドではない」という解釈もあった。
でも自分はそう思わない。
ひよこ?はあくまで最初から「らくがきのひよこ」だった。そしてそれ以外にはならないのだ。
だからすみっコたちは新たに「らくがきのひよこすみっコ」を描くことで、自らも「らくがきの一部」となり、ひよこと今度こそ本当に同じ世界の仲間になる。
白紙のページでひとりでいたひよこ?は確かに白紙ではないページの住人になるのだ。

そんなひょこ?の見える世界を描くようなエンドロールだった。
ひよこの目の前に広がり現れる花畑と家。
ひよこの姿のすみっコ、特にぺんぎん?は泣きながら抱きつく。
絵本の他の仲間と遊ぶひよこたち。
ひよこがかつてたのしそうだなあと見送っていた骨投げに参加するひよこ?。
狐としろくまひよこが仲良くしてるのはマッチ売りの世界で仲良くなったからだ。
ひよこ?をひよこすみっコたちはいつも真ん中にしている。
最後に絵本を抱きしめて寝ているすみっコたち

エンドロールはひよこ?の世界を見せてくれたのか、こうだったらいいなと想うすみっコたちの願いだったのか
その回答はない。
なくていいのだろう。それぞれがそうだと思った世界がきっと正解なんだ。
少なくとも誰にも忘れられていたらくがきのひよこは、もう誰にも忘れられていない愛されたひよこなのだから。

前半は眠かったけど後半泣けた、というのも素直な気持ちだろうけど、あののどかな前半はすべてこの後半に向かってゆくための重要なシーンばかりで、実は1秒の無駄もない。
音楽も、タイミングも、時間も、飽きさせずに展開しながら、感情表現も限界までシンプルにし、それでいて自己主張の少ない美しいグラフィックの中にもすべての伏線を張ったとてつもない「究極の削ぎ落とし」をされた65分だ。
見終わったらそんなに短かったとは感じないだろう。
あとで気づいたら、ぺんぎんは実はこのあと旅をするすべての物語を読んでいる(アラビアンナイトの話を見たけど実はキャラ紹介の時にあかずきんも見ていた、多分桃太郎も見てる)
ここで桃太郎にされたねこが語り部の話を聞いて「そうなの?!」ってぺんぎん?に聞いてぺんぎん?が黙ってうなずくというシーンにつながる。
実は読書好きのぺんぎん?は話を網羅している。
気付かなくても面白いが、気付くともっと感動する仕掛けがこれでもかと仕掛けられてる。4回見たけど多分まだ全部を気付いてない。
1回目より複数見たほうが泣く理由にこういうことに気付くのもあるが、何度も見ていくとすみっコとひよこ?の思い出がより強く刻み付けられてゆくから余計に別れが辛くなるのかもしれない。
あと、未来視できても歴史を変えられない異能力者のつらさみたいのまで発生している気がする…

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