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20XX年のゴッチャ その17

 自己隔離
 
 その夜、菜々子がオーフ・ザ・レコードに到着すると二階の住居部分から賑やかな子供の声が漏れ聞こえて来た。
「お孫ちゃんかな?」
 菜々子はそう思いながらベルを押した。入ると桃子が既にチーズを摘まみにビールを飲んでいた。
「おはようございます。お孫さんですか?」
 桃子と目であいさつを交わした後、菜々子がこう尋ねた。
「そうだよ。ちょい五月蠅いかも知れないな」
 ルークは相好を崩した。
「何を飲む?」
「私も生ビールで」
どんな時間帯でもその日初めて会ったら「おはようございます」は業界の習慣だ。
 
「その後、新しい情報は入ったの?」
桃子が口火を切った。
「丹東ではなくて北東の吉林省から入ったきり音沙汰無しです。他も特に進展有りません。次にどうすれば良いのか悩んでいます」
「私の方もさっぱり。日本政府の関係者に会ったら中国に入ったらしい以上のことは何も知らないみたいだったわ。言わなかっただけかも知れないけど」
 
 菜々子の前にグラスを置くとルークは言った。
「今日は骨付き鶏腿肉と豚バラ肉、それにソーセージのポトフ風煮込みと芽キャベツのロースト、メゾン・カイザーのバケットのガーリック・トーストさ。もう準備して大丈夫かな?」
「いただきまーす」
 二人が声を揃えた。
「少し時間が掛かる。少々お待ちを」
 そう言うとルークは大きな寸胴からポトフを鍋に移して温め始めるとともに、トースターにパンを入れた。芽キャベツのローストもフライパンで軽く温め始める。
 
「今日もお美味しそうですね」
 桃子が声を掛けるとルークは説明した。
「孫が来る時、女房は比較的手間が掛からず、コトコト煮れば済む料理を作ることが多くてね。ガーリック・トーストは孫も好きだしね」
奥方は孫の為のついでに客用も作ったらしい。わざわざ別の料理を作るのは二度手間だ。
 
「まず、これを食べていて頂戴。摘まみ代わりにもなるし」
 そう言ってルークは小鉢に入れた芽キャベツのローストを出した。茶色く少し焦がした部分の風味と細切りのベーコンが良いアクセントになっている。
「美味しいですね。コツを訊いても良いですか?」
 菜々子の問い掛けにルークは「見ての通りさ」とこの手の質問には例によってにべもなかった。
 
 ルークはパンの焼け具合を確認するとガーリック・バターをしっかり塗り、再びトースターに戻した。鍋のポトフがぐつぐつと音を立て始めた。
 
「へい、お待ち」
 深皿に持ったポトフと小皿のガーリック・トーストが出てきた。
「芥子は?」
「お願いします」
 暫くの間、二人は料理と辛口の白ワイン、そして、他愛もない会話を楽しんだ。店主は口を挟まない。ニコニコと聞いているだけだ。明らかに機嫌が良かった。
 
 ルークが皿を下げ始めると菜々子が嘆息した。「本当に美味しかったー、大満足です」
 桃子が続いた。
「身体も暖まったし、最高でした。ご馳走様でした」
「それは良かった。女房も喜ぶよ」
 桃子がさらに続けた。
「それにしてもルークさん、今日はやけに機嫌が良いですね。お孫さんがいるからですか?」
「いや、まあそれもあるけれどね。他にもね…」
「何ですか?」
 菜々子が引き継ぐ。
「いや、昨日の日曜日にさ、婿殿と芝刈りに行ってさ…見事に勝ったのさ」
「そうなんですか…スコアは?」
「九十は切れなかったんだが、婿殿が不調でね。勝ったのはほんと久しぶりだよ」
 桃子はややきょとんとしている。ゴルフに勝つのがそんなに嬉しいものかと訝っていたのだ。桃子は仕事と酒が趣味だった。一方、菜々子はたまにゴルフに行く。ワシントン特派員時代に仕事の付き合いもあって始めたのだ。
「暖かくなったら一度ご一緒しませんか?ゴルフ好きの知り合いの外交官でも誘って」
「ほ、それは珍しいね」
確かに菜々子がゴルフに行こうと言い出したのは初めてだった。桃子がすぐに反応し、肩で菜々子の肩を押しながら切り込んだ。
「良い人なの?」
 菜々子がほんのりと頬を赤らめた。彼女がこの程度の酒で赤くなることは無い。太田の事を思い浮かべたのだ。
「そんなことありませんよ」
 菜々子が惚けたのは誰の目にも明らかだったが、それ以上の追及はしない。皆、もう、そんな歳ではない。
 
「それにしてもさ。列車は何をグズグズしているんだい?御大が乗っているにしては変じゃないかな?」
 ルークが話題を最初に戻し菜々子に尋ねた。
「本当に乗っているのかい?」
「いや…そう決めつけた訳ではありませんが…」
 菜々子が言葉に詰まっているとルークが被せた。
「北の国内状況は芳しくないのだろ?のんびりと列車で北京詣でをする余裕はないんじゃないか?」
「ルークさん、行きは飛行機で、帰りは列車に乗って地方視察をする可能性は結構あると思いませんか?」
 桃子が投げ掛けると、ルークは応じた。
「そうだね。それならまだ発表がないのも頷ける」
「でも、列車で訪中というのは北京の情報です。それが間違っているとここで否定する材料もありません」
 菜々子が論点を戻した。
「確かにそうね」
 桃子が賛同した。それを受けルークが提案した。
「ちょっと整理してみよう。訪中計画と列車説は北京の岩岡ルートが最初。環球時報報道もあった。これらを否定する材料は無い。北のコロナの状況が不透明という言わずもがなの指摘をわざわざ伝えてきたのは北京の菜々子筋、正哲情報と健康問題情報は桃子の韓国筋。私のアメリカ人の知り合いは、正哲情報を否定せずもっと視野を拡げろと。そして、特別列車の越境は支局で確認済み。しかし、今、何処にいるか分からない」
 ルークは少し首を傾げ続けた。
「しかも、どの情報もまだ消えたとは言えない状態だ。これが何か大きな動きを意味するのか、それとも単なる偶然か?桃子、どう思う?」
 口調は完全に上司時代に戻っている。
「私は正哲情報が一番気になります。きっかけはそれでしたし、国情が力を入れているのも」
「確かに、正哲話が他に比べて異質だ。本筋とは直接の関係は無いように見えるのに国情が依然力を入れているということならばやっぱり何か裏があると考えるべきだろうね。アメリカも歯牙にもかけていないという訳ではなさそうだし。この期に及んでもまだ消えていないんだろう?」
「そうだと思います。異質と言えば重病説も異質です。他の情報・動きと同時に成立する話ではありませんから」
「菜々子、中国筋では正哲話と重病説は引っ掛かってこないままかい?」
「ありません。上がってくるのは訪中・列車、それにコロナ関連だけです」
 
 ルークが暫し思案し、再び口を開いた。
「待てよ、中国から上がってくるのは、いずれ明らかになる話か誰でも既に薄々は知っている話だけということになるな。もしも、彼らも正哲話と重病説を知っていて厳重な箝口令を敷いているとしたら?正哲話は他に比べれば、言わばどうでも良い話の筈なのに、これも黙っているとしたら、それは何を意味するんだ?」
 菜々子も少し思案し応じた。
「真偽はともかく、国情が知っている情報なら中国も掴んでいて不思議ないと思います。ただ、過去の例からしても、自明のことになる前に重病説に中国が触れることはあり得ません。正哲話を表向きは気にも留めないのも珍しくないと思います」
「そうかー…」
 いろいろ考えてみてもやはり埒はあかない。
 
 オーフ・ザ・レコードのベルが鳴った。遅れて矢吹が合流してきたのだ。矢吹は他の客が居ないのを確認すると挨拶も省略して開口一番こう伝えた。
 
「列車にはやはり御大が乗っているみたいですよ。大使館の国情筋と飯を食っていたのですが、彼らはそう踏んでいます」
全員で顔を見合わせた後、ルークが尋ねた。
「その根拠は?」
「どうも列車と本国の通信量が違うらしいです。誰も乗っていないとすればあり得ない量なんだそうです」
「とすると、それはアメリカも分かっている筈だ」
「きっとそうですね」
 ワシントン駐在経験もある菜々子が同意し、続けた。
「だとすると、まだ北京に向かわない理由は何でしょうか?発表だってあっても良い頃ですし、どこかに寄り道するとしたら、そろそろ傍証程度は伝わって来るはずです」
 
 桃子がこれを受けて発言した。
「出発したものの中国側の事情で待たされている可能性ならあるかもしれませんね。もったいぶって数日程度はのらりくらりやることだって考えられなくもないですよね。何と言っても皇帝様ですから」
「それはあり得るな…また粛清でも始めたかな?」
 ルークが応じると矢吹が言った。
「いやいや、そんな状態なら中国も訪問を受けないでしょう。もうすぐ全人代だって始まるし、何か合理的な理由があるんだと思いますよ。それも双方納得ずくの」
 
 沈黙の時が暫し流れた。ルークは矢吹にシェリーのグラスを渡した。
 
「不思議だわ…」
 桃子が呟くと菜々子が続けた。
「さっぱりですね。でも、やっぱり私も北京に行こうと思っているんです。取材の応援に」
「あら、良いわね。いつ入るの?」
「まだ決めていませんが、近々」
「へー、良く加藤がオーケーしたね。どうやって丸め込んだんだい?」
「えへへ、例の奥の手を使ったんです」
「ほー、何度も使えるもんじゃないが、偶に使うと効果抜群な奴だな?」
「矢吹先輩の真似をさせていただきました」
「馬鹿言うんじゃないの。僕はそんなの二回しか使っていないよ。桃ちゃんの得意技だよ。あっはっは」
「まぁたー何をおっしゃいますやら。私は一度も使っていませんよー」
「嘘つきばっかりだなぁー」
 三人が声をあげて笑った。
 
 するとルークが素っ頓狂な声を上げた。
「あれっ、まさか…」
「何ですか?」
 矢吹が問うとルークが問い返した。
「今日、コロナの話は出なかったか?」
「あ、結構深刻らしいっすよ。幹部連の間で動揺が広がっているらしいと言っていました」
「重病説は?」
「その噂はいつもの事さっつう反応だけで受け流されました」
「とすると、韓国筋と中国筋で一致するのは訪中計画の他は北のコロナは深刻という情報だけにならないか?」
「そうですね」
「確かにそれだけですね」
「でも、それが何か?」
 三人が矢継ぎ早に反応した。
「いや、まさかとは思うんだが、御一行様が中国に入ってから全員まとまって自己隔離して体調を観察している可能性はないか?」
「いや、そんなまさか…」
「ワクチンなら打ち終わっているはずですし…もうそんなに怖い病気じゃないでしょう」
「でも、万が一、そうだとすると北京入りは結構先になるかもしれませんね。私はいつ行けば良いんだろう」
「とすると、発症者が出たら引き返す可能性だってあるのかもしれませんね」
 桃子が加えた。
「でも、中国なら対策は万全の筈でしょう。そこまで警戒する必要があるんですかね?」と矢吹が問うた。
 菜々子が応じる。
「全人代前に習近平に感染したら一大事です。それこそ大問題になりますね」
 ルークが続ける。
「嘘か本当か知らないが、昔、習近平はB型肝炎が悪化して生体肝移植を受けたという噂がある。もしも、それが本当だとすると彼は免疫抑制剤を飲み続けている筈だ。いずれにせよ、越境後然るべき自己隔離期間を置いているとすれば、ぐずぐずしているのも発表が無いのも説明がつく」
「うーむ…」
「その説明は成立するかもしれませんね」
「確かにね」
「いや、そうだとすると最長で二週間は隔離することになる。推測のまた推測に過ぎないが、菜々子の北京入りのタイミングはしっかり見極めた方が良いぞ。せいぜい一週間しか留守に出来ないだろう?」
「そうですね。参考になります」
 皆、ルークの勘が良く当たるのを改めて思い出した。
 
「そのまさかのよもやなんですけど…」
 桃子が最後に言った。
「まさか、危ない北朝鮮株が出現していたりして…、あー、怖すぎますね」
 
 全員再び押し黙った。根拠はまるで無いが、万が一、そうだとすれば更に説明がつく。既存株でそこまで神経質になる必要はない。
 
 先進国ではとうにワクチンが行き渡り、経口治療薬も普通に使えるようになっていた。自宅療養中の突然死の主な原因と疑われていた血栓症とサイト・カイン・ストームへの対策も徹底されるようになっていた。しかし、それで新型コロナウイルスの脅威が無くなった訳ではなかった。最初の数年に比べればかなり減ったものの、年間で見れば日本全国で千人単位の重症・中等症患者と、高齢者中心だが百人単位の死者がずっと発生し続けていた。油断は禁物だった。加えて、新たな変異株が出現したとなると、その性質によっては大いなる脅威になり得るのだ。
 
 オーフ・ザ・レコードのベルがまた鳴った。新しい客だ。これを潮時と三人は家路に就いた。
 
 帰宅後、菜々子は岩岡と棚橋に連絡を取った。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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