オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その121

 

秘書室

 
 
 その夜遅く、オーフ・ザ・レコードに矢吹が再び姿を現した。先客が既に帰宅したらしく、ルークは真っ白な布巾でグラスを丁寧に拭っていた。
 
「生?それともシェリーにするかい?」
「シェリーがあるならお願いします」
 
 ワイン用の冷蔵庫からルークは中身が半分程残ったシェリーの瓶を取り出し、小さめのワイン・グラスに注ぐ。それを見ながら矢吹が言った。
 
「それにしても、最近、他の客に会わないですね。先輩、大丈夫なんですか?」
 遠慮は無い。
「パンデミック以降、客足が遠のいているのは事実だね。特に二次会に来る客は激減したよ。でも、まあ、こっちも会員制にして客を選んでいるんだから、仕方ないさ。とんとんなら御の字さ」
 
 ルークがそう応えながらグラスを渡した。
 
「先輩、菜々子から話は聞きました?私はまだ直接には聞いていないんですが…」
「あー、夕方、ちょこっと顔を出してね。大体のところはね」
 
 ルークは菜々子の今日の面会の話をざっと説明した。
 
「大丈夫だと思いますか?菜々子は?」
「それが、異動の対象にならずに済むかどうかという意味なら、やっぱりもう手遅れじゃないか?問題は何処に行かされるかなんじゃないかな…」
「先輩もそう思いますか…」
 
 ルークが後ろを向いて、カウンター正面の棚の真ん中に飾ってあった額を取り出し、何も言わず矢吹に渡した。矢吹は普通のA4サイズの紙に印刷された文章に目を通す。
 
「東京都知事と千葉県知事が今月1日に会談し、羽田空港と成田空港の今後の在り方などについて話し合っていたことが明らかになりました。
関係者によりますと会談の中で両知事は、これまでの『国内は羽田、国際は成田』というルールを見直し、羽田空港と成田空港を今後、協力して活性化させていくことで一致したということです。
今回の会談で、羽田空港が国際空港としての機能をさらに充実させていくことを千葉県側も事実上了承したことになります。」
 
「これ、昔の例の記事ですね?」
 一読した矢吹が言うとルークは頷いた。
 
「記事の内容自体は今となっては、これのどこがニュースなのという位の話なんだが、ご存じのように、担当記者が先走ったというか、少し書き飛ばした部分があって、両知事がかなり立腹してさ…、記者は秘書官にきちんと仁義を切ったと言うんだが、それでも都知事には俺と記者が、県知事には局長が頭を下げに行った。だが、収まらなくてね…」
「確か、そんな話を小耳に挟んだことがあります」
 
 矢吹は神妙に拝聴する。
 
「多分、知事達は所管の国交省からも随分怒られたんだろうと推測するが、結果、記者の生首を差し出せ!という要求になって…、俺としては、頭を下げに行った時には何も言わなかった癖に後から首まで差し出せとはなんだと当然無視したんだ。ま、権力を嵩にふざけるなと反発したわけだ」
「その結果、先輩が飛ばされたんですよね…」
「局長と俺と記者と三人見事に外されたんだな」
「あの時は衝撃でした」
「まあ、俺が飛ばされた理由については他にも心当たりがあったし、潮時でもあったろうから多少覚悟はしていたんだが、それは兎も角、今回の件と共通点が一つあるんだ」
 
「え、それは何ですか?」
「秘書室さ」
「どういうことですか?」
「あの時も、秘書室筋から担当記者を直ぐに配置換えした方が良いんじゃないですか?という示唆が内々にあったんだ」
「つまり、代表の意向がそうだということだったんですか?」
「そうだったんだろうな…でも、直接は言ってこなかった。そうやって間接的に考えを伝えて忖度させようとしたんだと思う。当時は肩書上もCEOだったんだから命令を出されたらこっちは聞かざるを得なかったのに、そうはしなかったんだな…」
「やっぱり怖いですね…」
「俺はそれなら余計に聞き入れるわけにはいかないとケツを捲ったんだ。それでああなった。巻き添えになった局長には申し訳なかったと今になって思うがね…あの局長は珍しく記者魂もあったからさ」
 
「何とまあ…先輩、そこまで分かっていて、何で忖度しなかったんですか?我々がどんな思いをしたか…」
「いや、それは確かに悪かったと思う。だが、あの時は部下の若いのがちょいとドジ踏んだからといって切り捨てて、自分だけ良い顔しようとは全く思わなかった。社の人事に政治家の介入を許すなんてあり得ないしな。加えて忖度というやつはご免被りたいんでね。この点は今でも全く後悔はしていないぜ」
 
 人間社会では偉くなればなる程、周辺に忖度を求める傾向が強い。女房族の多くもそうかも知れない。そして、対応が期待と異なると「アイツは気が利かない」とか「あの人には思い遣りがない」などと詰る。しかし、忖度の結果が凶と出ると「俺はそんなことは言っていない」とか「頼んでいないわ」とか言って逃げるのだ。誰にでも覚えはある筈である。
 
 程度問題とは言え、要望があるなら「はっきり言えば良い」と常々ルークは思っていた。明確な指示を出し失敗したら「現場はお前に任せただろう!」と開き直って怒るぐらいの方がまだ救いがある。
 
 矢吹は「先輩、それで全員飛ばされてもっと酷いことになったじゃないですか?」と言いたかったが、それは飲み込んだ。
 
「似ていないか?今回も本人には直接言わない。しかも、今回は直属の上司でもない矢吹に北山が代表の不満を内々に伝えた…どう思う?」
「…」
 矢吹は暫し考えてこう応えた。
「つまり、代表が試したのは菜々子ではなく私ということですか?」
「そうなんじゃないか…、あの大狸のやりそうなことさ。だから、上手くやれと俺は言ったのさ」
「うーん…、だとすると菜々子は異動ですね」
「そう、それはもう決めているんだと思う。もう一つやらかしたら危ないというのは矢吹が言ったことだろ?そして、君は多分合格したのさ…」
「止めてくださいよー、先輩。僕はそんなつもりでは…」
「だが、君は菜々子を結果的に救けたんだ。罪一等を減じせしめるという点で。だから後ろ暗い思いをする必要は全くないのさ」
 
 矢吹はグラスのシェリーを一気に飲み干した。ルークがお代わりを注いだ。
 
「ここまでは読みだ。多分、当たらずといえども遠からずさ。だが、ここから先は推測になる」
「まだ、あるんですか…?」
 
 矢吹は少しげんなりしてきたようだった。
 
「要はだな…加藤が現場を全く掌握していないことをこれであの爺様は明確に認識しただろう。俺に言わせりゃ最初から分かっている話だがね」
「それはそうかも知れません」
「その結果、何にも知らんうちに王鶴に呼び出され、中国当局と大揉めになる恐れさえあった。担当常務も全く頼りにならないと考えても不思議ではない。奴は単なる社内政治家で、何も把握していないし統制出来ていないという点では同罪だからな。
 ケース・バイ・ケースだが、あの爺様、大権力と事を構えるのは避ける傾向にある。そして、現場の暴走には懲り懲りしている。政治部系の主だった人事を見れば一目瞭然だろう?一民間企業のトップとしては当然と考えているんだろうがね…」
 
「報道機関の長としてはどうなんですかね…」
 
 矢吹はもっともらしくこう言ったが、本心はこの先の話をはぐらかそうとしただけだ。
 
「まあ、リンゴ日報の創業者の爪の垢でも煎じて貰って飲んだら良いと思うが、いいか?そんな発言はこの場限りにして、俺とこうして接触していることもバレないようにするのが大事だぞ。悪魔が明後日の方向から襲い掛かって来ないように、そして、次の可能性を潰さないようにしてくれな」
 
 最後の言葉をルークは悪戯っ子がその成果を振り返って一人笑いするかのようにニヤニヤしながら発した。彼も人が悪い。
 
矢吹は「勘弁してくださいよ…」と力無く返したが、直ぐに押し黙り、グラスをぐいっと傾けた。

 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。 
 
©新野司郎

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