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20XX年のゴッチャ その21

抗体依存性感染増強
 
「その抗体依存性なんちゃらが危険なのは分かったが、Nタンパクの邪魔をすると抗体依存なんちゃらが出て来ても大丈夫ということ?」
「抗体依存性感染増強だよ。覚えにくいならADEと言う方が簡単さ。で、実はNタンパクはコロナの遺伝子を包んでいる殻みたいなものを作っていて、抗原検査なんかで探知できるのだけど、これが時々、ウイルスに侵入された細胞の外に顔を出すらしいんだ…」
 
 翌日午後、ルークは知り合いのウイルス学者・道明寺昭彦に根掘り葉掘り訊ねていた。ズームを使っている。専門家の間ではADEとも称される抗体依存性感染増強はとても厄介な現象として知られていた。
 
 人体がウイルスに感染すると免疫機能の働きで様々な抗体が作られるが、そうやって出来る抗体は人体に役に立つものばかりとは限らない。細胞への新たな感染を防ぐ中和抗体が必要にして十分に生み出されれば次の感染や症状の悪化を防ぎ、ひいてはウイルスを退治することに繋がるが、役に立たない抗体が幾ら出来ても意味はない。
 
 ワクチンは人為的にこの中和抗体を生み出させるのを狙ったものだが、エイズウイルスの有効なワクチンが何年経っても完成しないのは役に立たない抗体ばかりが出来てしまうからだ。
 
 特に厄介なのが、役に立たないどころか感染を却って促進してしまう悪玉抗体が出来てしまうケースだ。
 
 東南アジアなどで流行しているデングウイルスは1型から4型まで四種類のタイプが確認されているが、例えば1型に感染した身体に他の型が感染すると、体内にある1型の抗体が他の型の感染を促進してしまうケースがある。そして、時にデング出血熱という重大な症状を引き起こすことが知られている。これがADE・抗体依存性感染増強という現象である。WHOの主導でデングウイルスのワクチンの大規模治験がかつて実施されたことがあるが、このADEが出現し、その治験は取り止めになったこともある。
 
「もっとも、増殖時のNタンパクの働きというか役割は完全には分かっていないんだが、細胞の外にちょっと顔を出した段階で、阻害すると言うか、ま、抗体をくっつけて身動きできないよう邪魔をすれば、細胞内で増殖したウイルスが外に飛び出すのを阻止できる可能性もあるのではないか…そういう期待で研究・開発が進んでいるんだ」
「それは本当に必要なのかな?屋上屋を架して更なる金儲けの材料にするだけなんてことは無いよね?」
「金儲けの材料には間違いなくなるだろうけれど、Sタンパク・ワクチンだけだとADEが出た時非常にまずいよ。というよりとても恐ろしいことになるかもしれないよ」
 
 新型コロナウイルスもこのADEを引き起こす恐れのある悪玉抗体を作り出してしまうという報告がある。ただ、これまでのところワクチンを打てば中和抗体の方が遥かに多く作り出されるようで、大きな問題には至っていない。しかし、重症化した患者の体内には何故か悪玉抗体が多いという気になる報告もあった。
 
 これまでの新型コロナ・ワクチンは基本的に人間の細胞内への侵入を果たすのに必要な、ウイルスのSタンパクの働きを阻害する抗体を作り出す。ウイルスが細胞内に侵入出来なくなければ自己の複製はできない。だから重症化を防ぐし、運が良ければ発症そのものを抑制できるのだ。しかし、ADEが出現してしまうと話は別である。却って酷いことになり得るのだ。
 
 この為、Sタンパクを標的にしたワクチンだけでなく、他のタンパク、例えばこの会話に出てくるNタンパクも標的にした新たなワクチンの開発も続けられてきたが、道半ばという状態のようだった。
 
 道明寺は続けた。
 
「メッセンジャーRNAワクチンの技術は、元々、不活化ワクチンやタンパク・ワクチンなどの従来の製造技術ではエイズのワクチン開発が全然上手くいかないので考え出されたものなんだ。これなら今やコンピューター上で抗体の設計ができて、人工的に製造できるから速いし、何度でもやり直しが利く。修正もすぐという訳だ。そうやって作り出した抗体が人間の体内でも有効かどうかは全く別の問題があるのだけれど、Nタンパク・ワクチンも案外うまく行くかもしれないよ」
「つまり、SとNの両方を邪魔する混合ワクチンみたいなものが接種できるようになれば遥かに安心ということ?」
「そうなれば良いかもしれない。今はまだ何とも言えないけれどね」
 
 Sタンパクを標的にしたワクチンは変異株が出現すれば更新されなければならなかった。この為、ワクチンメーカーは今も開発・製造を続けていた。同時に、毎年、結構な利益を上げていた。
 
 また、必要な酵素の働きを阻害するなどして細胞内でウイルスが増殖するのを防ぐ経口治療薬も既に出来ていた。しかし、インフルエンザの治療薬が発症から四十八時間以内に服用されなければならなかったのと同じように、ごく初期に服用されなければ効果は薄かった。体内でウイルスが増殖し切ってしまった後では余り意味がない。そして、これには抗原検査キットと治療薬をセットで遍く普及させることが求められた。しかし、ワクチンに加え、治療薬、抗原検査キットという三種の神器が潤沢にあるのは先進国だけだった。
 
 その先進国でも、ADE株とも言うべき変異株が出現すれば、またパニックが起きるだろう。一部専門家の間ではADE株の出現が発生当初からずっと懸念されていた。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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