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20XX年のゴッチャ その30

 フォギー・ボトム
 
 フォギー・ボトム、直訳すると「霧の底」はワシントンのホワイト・ハウス西方にある地区の名前で、同名の地下鉄駅もある。そこにアメリカ国務省の本省ビルがある為、フォギー・ボトムと言えば国務省を指すこともあった。
 
 本省ビルの七階には国務長官室や副長官室など首脳の部屋が固まっていて、エレベーターを降りるとホールの正面にセキュリティーボックスが並んだ棚があった。珍しいことでは無いが、来訪者はまずそこに自分の携帯を預けなければ先に進めない。主に盗聴を防ぐ為だ。
 
 特に心配なのが、持ち主の知らぬ間にスマホがスパイ・ウェアに感染させられていて、第三国の情報機関に会話の内容が筒抜けになることだった。そんなことまで警戒が必要な程、スパイ・ウェアは発達して久しかった。
 
 現地時間のその日昼過ぎ、ワシントンにある中国大使館の参事官・秦強は記録係の二等書記官と共にエレベーターホールのセキュリティーボックスに自分のスマホを預けるとトム・ワイズ副長官の主席補佐官の部屋に入って行った。
 
「ようこそ、秦参事官、お元気ですか?」
 顔見知りのエレン・シンセキ補佐官が急な来客を型通り迎えると秦は応えた。
「お陰様で元気にしております。シンセキ補佐官もお元気そうで何よりです」
「今日はどのようなご用件ですか?」
 首席補佐官はすぐに本題に入るよう促した。
 
 文字通り世界を相手にするアメリカの国務省首脳はいつも忙しい。そして、副長官の用向きを全て陰で支える首席補佐官は更に多忙であった。この為、急な来客を受けることなど滅多になかったのだが、この日の秦参事官は例外であった。それにしても多くの時間は割けない。面会は十分の予定だった。
 
「既にご承知と追いますが、本日、北京で中朝首脳会談が執り行われ、その場で、習近平主席が北朝鮮で新型コロナウイルスの変異株が新たに出現したことを確認されました。懸念された通り、ワクチンが効かない変異株です」
 アメリカ側も想定した通りの内容であった。
「なるほど、何故、ワクチンが効かないのかは?」
「それはまだ確認作業を続けているところです。判明し次第、お伝えすることになるかと思います」
「分かりました。では、今後、どのように対応されることになりそうですか?」
「それはまだ確定しておりませんが、我々は北朝鮮だけで封じ込めに成功するとは考えておらず、北朝鮮政府も我が国の全面支援を受け入れることに前向きです。この後、再び、首脳会談が開催される見込みで、委細はそこで決まると思われます」
「我々が出来ることは?」
「中国政府としては貴国を始め西側各国の支援も必要と考えておりますが、それがはっきりするのは二回目の首脳会談に於いてかと思います。本国からの指示でこのように異例とも言える形で途中経過をお伝えした訳ですが、この問題に関する中国政府の誠意ある姿勢は十分にご理解いただけると思います」
「それは勿論理解し評価致します。続報も頂けるということですね?」
「はい。最終結果については、習近平主席はご自身でベン大統領閣下に直接お伝えしたいとお考えのようです。アメリカ政府におかれましては、その準備もお願いしたく、こうして参上した次第です」
「分かりました。直ちに関係部局に伝えます。変異株次第ですが、前向きに検討することになるでしょう。時間的な目処をお教えいただけますか?」
「まだ確たることは分かりませんが、早ければ明日夜、遅くとも週明けには可能になるかと…。ただ、首脳オンライン会談のタイミングにつきましては改めてご相談申し上げたいと考えております」
「承知しました。他にはありますか?」
「いえ、これでお伝えすべきことは完了しました」
 
 秦参事官と書記官は国務省を後にした。内容的には大使か筆頭公使が直接伝えるべきことかも知れなかったが、国務省の出入りをチェックするメディアに見つかる恐れがあった。 自分のような参事官レベルであればその可能性は低い。玄関近くでマイクを突きつけられるようなことは無かった。
 
 シンセキ首席補佐官は直ちに壁一枚隔てた執務室で待ち構えていた副長官に報告をした。
 
 内容はすぐに長官とホワイト・ハウスにも伝わり、オンライン首脳会談の準備が始まった。アメリカ政府の支援計画案の再確認も入念に行われた。
 
 翌朝の日本各社の関連報道は「初日の会談終わる。中朝首脳の協議は二日目以降も続く見込み」といった程度で目新しい内容は無かった。新しい映像は人民大会堂を出た金正恩総書記一行の車列のみであった。
 
 メトロポリタン放送は大友のクラプトン・コンサート・レポートも報道したが、こちらも驚きは無かった。
 
 調査団招聘 
 
 本編割愛し、先を急ぐ
 
 出動
 
 パリ郊外のオルリー空港近くのホテルでスタンバイしていたAAI、エア・アンビュランス・インターナショナルのパイロット、トニー・ジョンソンに出動命令があった。中国当局から飛行許可がやっと下りたのだ。
 
 最終チェックを慌ただしく済ませると、夜明けとともに、ガルフ・ストリームが離陸した。医師や看護師らのチームも同乗していた。北京時間で翌未明には到着する予定だった。ジョンソン機長には、給油を終え、患者一行が搭乗したら、すぐに北京を出立するよう指示が出ていた。
 
 ほぼ同じ頃、平壌空港を中国軍の小型輸送ジェット機が極秘裏に離陸した。積み荷は厳重に封印されたADE株で運搬役は完全防護の軍の科学者達だった。行先は武漢にある中国科学院のウイルス研究所だ。軍の施設に持ち込む選択肢もあったが、あらぬ疑いを避ける為にも、武漢の研究所が選ばれた。輸送機の行先はアメリカに間違いなくモニターにされている筈だ。
 
 あらぬ疑いとは、新型コロナが生物兵器として人為的に作られたものではないかというものだ。
 
 アメリカの情報当局も、ごく初期の頃からその可能性は限りなくゼロに近いと断じていたが、世間の疑念は払拭されなかった。フェイク・ニースに違いないのだが、新型コロナウイルスの起源が依然謎のままだったことも手伝って、疑いを根絶するのは非常に困難だった。
 
 世界の軍民両方の研究者にとって、コロナウイルスのようなRNAウイルスを兵器化するのはあり得ない選択だ。
 
 遺伝情報が二本鎖の状態で二重螺旋と呼ばれる構造になっているDNAに比べて、一本鎖の遺伝情報しか持たないRNAウイルスは不安定で、複製の際にコピーエラーを起こしやすい。つまり、変異を起こしやすいわけで、これを兵器化して使用するとすぐに変異して、遠からず自分達にも襲い掛かって来るのは必定だったからだ。それ故、軍事用にRNAウイルスに手を加えることは事実上の禁じ手になっていた。
 
 純粋な科学研究目的で、ゲイン・オブ・ファンクションと呼ばれる遺伝子操作試験が行われることはあったが、厳重な管理の下、特別な研究施設で実施される筈のこうした試験で、ウイルスが漏出する可能性もゼロに近いと見られていた。
 
 もっとも初期の調査段階、例えば、蝙蝠の保有するウイルスを分離・抽出する際に気付かないうちに人間に移ってしまった可能性は否定されなかった。そのようなレベルの作業までBSL4や3の施設で行われる可能性は無かったからだ。勿論、中間宿主を経て、ヒトに感染するようになった可能性の方が大きかったが、その起源とヒトへの初期感染ルートはなお不明だった。
 
 間違いないのは、新型ウイルスのヒトからヒトへの感染流行は武漢で始まったということだけだった。その武漢の研究所にADE株を持ち込んで詳しい検査を行うのは、それはそれで勇気のいる決断だったが、背に腹は代えられない。北朝鮮から漏れ出し、中国国内に広まったら、とんでもない事態になるからでもある。
 
 中国軍が運搬するADE株の保管容器は特別仕様だった。一定以上の揺れを感知した時や、定められた複雑な手順以外で取り出そうとした場合、ウイルスが間違いなく死滅するように作られていた。人間が容器を強く揺らしたり、床に落とした程度の衝撃で、溶融材に浸るのだ。万が一、輸送中に事故が起きても、漏れ出す可能性は無かった。
 
 武漢ウイルス研究所では、まず遺伝情報を再解析し、Sタンパクの構造を調べ、感染力や毒性を確認する準備が進められていた。そして、既存のワクチンや治療薬がどのように作用するか確認し、次いで、間違いなく時間は掛かるが、新たなワクチンや治療薬の開発も視野に入れて、研究を進める手筈になっていた。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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