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20XX年のゴッチャ その29

 ゴッチャ
 
 その頃、メトロポリタン放送のパリ支局長、大友祐人は愛娘を連れて自宅近くの公園に居た。時差の関係でパリはまだ朝だ。そろそろ小学校に連れて行かねばならぬ時刻だったが、少しパパと遊びたいと言うので寄ったのだ。
 
「パパ、ゴッチャしよう!」
 と娘がねだる。
「少しだけね」と大友が応えると
「パパが逃げてね」
 と言って娘が数えだした。
「一、二、三、四…」
 大友が逃げると、娘の嬌声が追ってきた。
 
 大友の愛娘はパリの国際学校の小学校一年生だ。日本だとまだ幼稚園の年長組なのだが、パリでは秋から小学校に進学した。大友は娘を地元・フランスの公立校かドイツ語学校に通わせたかったのだが、妻の強硬な反対に遭い、主に英語で授業する国際校に入れたのだ。
 
「フランス語やドイツ語が少々出来ても、英語がチンプンカンプンでは駄目でしょ?ちょっと格好良いだけで、社会人になってから潰しが効かないわ」
 
 そう言われて大友はグーの音も出なかった。大友自身、ドイツ語ならペラペラだったが、英語やフランス語は日常会話に毛が生えた程度だった。妻の言わんとするところは良く分かったからである。
 
 その国際校で最近娘がはまっているのが「ゴッチャ」であった。
 
 大友がベンチの前でまごついた振りをすると娘が大喜びで大友の足に抱き着き「ゴッチャ」と言って今度は自分が逃げる。大友は猛スピードで十数え、追った。
 
 今の娘には「ゴッチャ」としか聞こえないようだが、英語では、それは「I’ve got you・捕まえた!」で、略せば「got ya・ゴッチャ」と聞こえなくもない。要するに鬼ごっこのことを娘はそう呼んでいたのである。
 
 大友は少し息苦しさを感じたが、頑張って走り娘を捕まえた。
「ゴッチャ!」
「きゃはははー」
 娘は楽しげだ。
 
「そろそろ行かないとね」
 大友が腰を落としてそう言い聞かせると娘は渋々頷いた。
「もうすぐ慣れるからね」
 娘が英語の授業に付いていけるようになるまでもう少しの辛抱だ。大友は娘の手を引いて、すぐ近くの学校に向かった。
 
 本当に出現するのか定かでは無かったが、まずターゲットを見つけるのが先決だった。彼も鬼ごっこを始めるのだ。
 
 噂話
 
 その日の夜、メトロポリタン放送のニュース制作部長・雨宮富士子は大学時代の友人、太田聡美と久しぶりに会食していた。
 
 太田は外務省のキャリア外交官で同期の太田博一の元妻であった。離婚後も仕事では太田姓を名乗っている。旧姓にまた戻すと多岐に亘る仕事の関係先にそれを一つ一つ連絡するのが面倒だったせいもあるが、姓の変更の連絡は同時に離婚したことも自ら宣伝することになる。それが意に染まなかったらしい。それに吹っ切れた訳でもないようだった。
 
「どうやら、うちの元旦に良い人が出来たらしいわ」
 聡美が幾分不愉快そうに呟いた。
「あら、穏やかじゃないわね。どんな話なの?」
 聡美は赤ワインを少し口に入れると応えた。
「良く分からないんだけれど、女性記者らしいわよ」
 雨宮は業界絡みのこの手の噂話が大好物だ。目の前にある小洒落たフランス料理など比較にならない。
「えー、何処の人?」
「それも部長クラスのベテランらしいわ。年齢的にはそれで不思議ではないのだけれど…テレビ局の女性という噂もあるわ」
「あら、まあ。気になるわよね?」
「そうね。少しはね…」
 聡美は顔を曇らせた。
 
 雨宮は目を輝かせた。女性記者で部長クラスは日本のメディアでももう珍しくもなんともないが、テレビ局の部長クラスの女性記者で独身となるとそう何人も居ない。きっと顔見知りなのだ。
 
「何処の社か分からないの?」
「そこまではまだなのよ」
「ねえ、分かったら教えてよ。会社が分れば絞り込めるから。どんな女か教えられるわ」
「そうね。分かったらね」
 雨宮はもう特ダネを掴んだような高揚感に浸っていた。
 
 北京でもすっかり夜が更けていた。しかし、首脳会談に関する発表も、これといった報道もない。初日の会談は既に終わり、金正恩総書記は市内の何処かで夜を過ごしている筈だったが、北朝鮮大使館には立ち寄っていない。報道陣に総書記の行方は杳として知れなかった。
 
 杮落し
 
 その日の夕暮れ時、パリ十一区のバタクラン劇場前の小さな広場と路上は野次馬で一杯だった。劇場正面には何台ものカメラが陣取り、運良くチケットを入手した観客達がその前を順に劇場に入っていく。小型カメラを手に持ち、そこかしこに散らばったメトロポリタン放送のスタッフが入場者を撮影しながらチェックしている。圧倒的に年配者が多い。
 
 日本時間では翌未明の二時半予定の開演時刻がかなり近づいていた。
 
 東洋系の若い女性を連れた、父親のような年代の初老の男性と若い男の三人組の姿を山瀬が見つけて一応こっそり撮影したし、日本人風の年配のカップルなどを見掛けて、やはり一応隠し撮りしたが、正哲と思しき人物は見当たらない。
 
「今日は来ないのかな…」
 大友が応援の山瀬に言った。
「そうかも知れませんね」
「ぼちぼち顔出しレポートを撮らないとね。
アリバイだからね」
 大友はその準備を始めた。
 
 周辺の野次馬の数は増えるばかりだ。丁度、バレンタイン・デーに当たるせいか、紙コップの暖かい赤ワイン片手のカップルが多い。かなり騒がしい。
 
「こちらはパリのバタクラン劇場前です。ギターの神様、エリック・クラプトンのファイナル・ツアーがここで間もなく開演します。
あの惨劇の追悼コンサートでもあります。周辺はチケットを買えなかったファンで黒山の人だかりです。皆、期待に目を輝かせています」
 
 大友がレポートを撮り終えるや否や、中からいきなり大音響が響き渡った。前振りも挨拶もない。
 
 大ヒット曲「いとしのレイラ」のイントロだ。大歓声が沸き起こる。中も外も大喜びだ。誰もがリズムに合わせてジャンプしたり踊り始める。
 
「丁度、今、開演したようです。外も大歓声です」
 大友も山瀬もクラプトンの音楽にはそれ程馴染は無かったが、この曲なら知っていた。踊り出すことはなかったが、釣られて少しウキウキとしてきた。
 
「凄いね」
 レポートを撮り終えた大友が山瀬に大声で話し掛ける。山瀬の返答は大音響に紛れて判然としない。
 
 続いてクラプトンの皴枯れ声が聞こえて来た。全盛期のような張りは無いが、歌声は健在だ。
 
「レイーラ―」
 コーラスと共にさびに入った。群衆も合わせて叫ぶ。野次馬も含め観客の興奮はのっけから最高潮に達した。
 
 その頃、金正恩総書記は特別列車の中で眠れぬ夜を過ごしていた。首脳会談後の内部の打ち合わせが終わったばかりで、周辺は本国への指示・連絡や公式発表の文案の詰めなどでまだ忙しくしていた。
 
 総書記は習近平主席との会談を反芻していた。
 
 習主席は中国の全面介入だけではなく、WHO調査団と西側主要国の支援も受け入れるよう求めてきたのだ。全く想定していなかった訳ではなかったが、すぐに受け入れるのは躊躇いがあった。だが、断ることは出来そうになかった。ただ、今日の会談では回答を留保することは可能だった。
「明日まで考えて頂いて結構です。じっくり相談してください」
 習主席はそう言ったのだ。
 
 総書記が自ら誰かに相談することなど滅多にない。しかし、それは既に終わっていた。何とかより良い交換条件を引き出すしかないという結論だった。誰と相談するのか「習主席はもう知っているのだろう」と察するしかなかった。中国政府は北朝鮮政府の意思決定のプロセスをしっかり把握している筈だ。
 
 総書記は特別車両の執務室の片隅のクローゼットに目をやった。一瞬、近寄るそぶりを見せたが、止めた。二回目の会談は翌午前九時に設定されていた。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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