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連載・20XX年のゴッチャ その1

もう一つの車列
 
 
  分厚い壁のような警護の輪が赤絨毯を幾重にも取り囲んでいた。
 
  壁を作るのは極限まで鍛え上げたのが遠目にもはっきり分かる屈強な男達である。獲物を探す猛獣のような眼差しをサングラスが隠している。揃いのスーツの生地と仕立てはお世辞にも良いとは言えないようだ。が、あの国なら仕方ない。
 
「さあ御出でくださいませ」

  宮澤菜々子は心の中で呟くと五十倍の望遠レンズを装着したカメラのファインダーに再び眼を近付けた。身軽にする為、モニターを用意しなかったのを少し悔いた。ずっとこれを覗いているのは辛い。
 
  間もなく彼の国の最高指導者が降り立つ筈なのだが遅い。ここは日本と違う。物事がスムースに進まないのに慣れてはいるが、それにしても遅い。部屋は暖房の効き過ぎで暑かった。菜々子はペットボトルの蓋を開けた。
 
  駅を挟んで反対側のホテルの上階に陣取った岩岡宏もこれといった動きの無い状態が続くのに焦りを感じ始めていた。訪中情報は本当なのだろうか…、だが、特別列車は確かにそこにいる。
 
  駅と言っても北京駅はまさに広大である。日本の駅とはまるで比較にならない。
 
  岩岡の位置からは超望遠レンズでも精一杯な上、屋根が邪魔になって焦点のプラットホームを上手く捉えられない。隙間からわずかに動きがわかる程度だ。それでもここにカメラを据えたのは車列の出立を撮影するにはこちら側しかなかったからだ。
 
「あれー」

  岩岡のホテルは遠いので各階のエレベーターホールにまでは地元の公安は居ない。ロビーだけだ。遠慮なく声を上げた。
 
  岩岡は既に車列が通常よりかなり長くなりそうなのに気付いていた。御一行様を待ち受ける車両と前後を固める中国公安の車両の数が前回訪問時よりかなり多かったのだ。プラットホームや駅周辺を固める要員の数も印象では倍近くに膨れ上がっていた。
 
  しかし、良く見ると警護の輪がもう一つとぐろを巻いているのに気付いたのだ。やはり前回と違う。

「ダミーかな」
 
  アメリカ大統領専用機も機体は同一の物が二機存在する。大統領がどちらに乗っても、搭乗している方がエアフォース・ワンと呼ばれる。そして、大統領が搭乗した片方だけが飛ぶことは無い。もう片方は故障時の予備にもなるし、ダミーにもなるからである。ヘリコプターも同様で大統領が乗る方がマリーン・ワンと呼ばれる。岩岡はそう理解していた。
 
  この二つの警護の輪も、そして、車列も片方はダミーに違いない。そう思った。が、いずれにせよどちらも撮影する必要があると身構えた。
 
  暫くして警護陣の緊張が少し高まった様子に菜々子は気付いた。袖に仕込んであるに違いないマイクに向かって複数の男達が囁き始めた。それらしい動きが見て取れたのである。明白には判別できないが表情も一層厳しくなっているに違いない。喉が鳴った。

「来る…」

  菜々子はカメラの録画スイッチを押し、画角を少しワイドに引き、画面に列車と赤絨毯を収めて待ち構えた。
 
 岩岡も同様の気配に気付き、スイッチを入れた。

 間もなく警護の輪が移動し始めた。岩岡側からは全体像や足元など見えない。中心に帽子を被り、分厚いコートを着た中背の御仁が居るようにも思えたが、はっきりしない。後で画像を拡大しても明確にはならない可能性が高かった。
 
  大仰な出迎えは無かった。菜々子の位置からは死角に入っている筈だ。
 
 数分後、中国公安のバイクや車両に先導されて車列が構内をゆっくりと出ていくのが撮れた。やや短い。過半の車両はまだ残っている。乗り込みの様子は見えなかった。

「やっぱりダミーか…」
 
 菜々子には敢えて連絡しなかった。傍受されるに決まっているからだ。
 
 暫くして一度高まった緊張が解けたのを菜々子は訝った。もう一つの輪と幾分短い車両の動きを知る由もない彼女に理由は判然としない。
 
 およそ三十分後、再び警護陣に緊張が走った。少し前とはその度合いはだいぶ違う。
 
 やがて深緑の特別列車のドアが開き、赤絨毯に一人の人物が降り立った。表情までは映らなかったが、背格好と余裕の立ち居振る舞いから将軍様に違いないと菜々子は確信した。
 
 岩岡も二つ目の車列の出立を撮影した。残るほとんどの車両が動き、残ったのは地元公安のパトカー二台だけだった。間もなく現場の警備も解かれたのが分かった。
 岩岡は機材を片付け、ホテルを後にした。支払いは済ませてある。
 
 一行が立ち去ったのを受け、菜々子は撮影したばかりの画像をその場で手早く確認し、荷物を纏めると持参したサンドイッチを頬張り始めた。腹が鳴っていた。現場に近過ぎる菜々子は念の為もう少し間を置いて撤収する。
 
  映像のコピーを現場で作ることは出来なかった。デジタル機材は当時まだ業界にもそんなに普及していなかったのだ。カメラの記録媒体を新しいものに取り換え、肝心な方はしっかり隠し持った。菜々子の存在に中国公安当局が気付いていても不思議ではない。万が一にも没収されたら苦労は水の泡になる。新しい媒体は没収用のダミーである。そして、形ばかりだが、適当に映像を収録した。本社への報告は支局に戻ってからだ。
 
 北朝鮮の最高指導者・金正日総書記の訪中確認というニュースは間もなく世界を駆け巡った。宮澤菜々子と岩岡宏が撮影した映像も自局の昼ニュースのトップを飾った。
 
 総書記訪中の可能性は既に広く知られていた。中朝国境の鉄道沿線の警備強化の情報や衛星画像で特別列車の動きを逐一追っていたであろうアメリカからの未確認報道があったからだ。それが確認されたのである。飛行機嫌いで知られる総書記の移動は常に列車か車であった。
 
 岩岡がダミーと察した動きは本社には報告されなかった。他社も、気付かなかった為もあるのだろうが、報じなかった。
今でも明白な証拠は無い。しかし、もう一つの輪は単なるダミーではなかった…。
 
***

この作品は近未来空想小説と言うべきものである。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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