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20XX年のゴッチャ その32

 公演二日目
 
 再び「いとしのレイラ」のイントロが鳴り響いた。日本時間の翌未明、パリのバタクラン劇場でクラプトンのファイナル・ツアーの二日目の公演が始まったのだ。
 
 メトロポリタン放送パリ支局長・大友祐人 とロンドン支局長・山瀬孝則ら取材チームはこの日も劇場周辺で張り込みを続けていた。しかし、カン・チョルこと金正哲と思しき人物の姿は無い。
 
「いないね」
「いないですね」
「この寒いのに、今日もずっと立ちっ放しか…嫌になっちゃうね」
 おデブは寒さがそんなに気にならない筈だが、大友が愚痴ると山瀬は「寒いのはまあ大丈夫ですが、二日連続で立ちっ放しは辛いですね」と応えた。
「何か暖かい物が欲しいよね」
 大友が本心を明かした。
「何処かで買って来ましょうか?」と山瀬が言うと大友は言った。
「そんな…大支局長様にパシリなんてさせられませんよ…なんてね。実はもう用意してあるんだ。昨日の反省を生かしてさ、ほら」
 大友はショルダーバッグから水筒と紙コップ、それに掌を拡げた位のサイズの紙箱を二つ、順に取り出した。
 
 山瀬に渡した紙コップにシナモンの効いた温かい赤ワインを注ぎ紙箱を渡す。タルト・タタンだ。寒さはそんなに気にならないとはいえ、有難いと山瀬は思った。周りも同じように温かいものを飲んでいる人が多い。トイレが気になりはしたが、その場合は近場のカフェかバーに行けば良いのだ。
 
「一応、交代で今日も最後まで張るとしても、もう次のウェンブリーが勝負かな。ロンドンに行ったら宜しく頼むよ。美味い物を食わせてね」
タルト・タタンを頬張りながら大友が言った。
「勿論、任せてください」
 山瀬も口をもごもごさせて応えた。
 
「本当にこの人は食い物の事ばかり考えている。気に染まないダイエットを無理矢理させられるとヒトはこうなるのかな…」と山瀬が少し情けなく感じていると大友はこう言った。
「僕、ロンドンに行く前にベルンに寄ってみようと思うんだ。何か当てがあるという訳ではないんだが、大使館と学校の様子をちょっと見てくるよ」
 大友だって仕事の事も考えているらしい。山瀬は少し安堵したが、それにしても彼は食べ過ぎだ。身体の事が気になった。
 
 劇場からは「ティアーズ・イン・ヘブン」の哀しい調べが漏れ聞こえて来た。
「私の名前が分かるかな?天国で出会ったなら…」
 この出だしは大友も山瀬も知っている。踊ったり叫んだりしていた周辺の野次馬達もこの時ばかりはじっと聞き入っている。クラプトンがこの曲を歌うのは久しぶりなのだ。大友にはそのフレーズが脳に刻み込まれたような気がした…。
 
 最後のアンコール曲「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」が終わった。大友や山瀬は初めて聞いたが、初期の頃のヒット曲だ。
 
 結局、この日もお目当ての御仁は現れなかった。
 
 首脳会談終了
 
 三回目の中朝首脳会談は翌日、日曜の昼過ぎに始まった。事務方同士の行動計画の取り纏めに予定より時間を要した為だった。
 
 席上、習近平主席から金正恩総書記に前夜の中米首脳会談の内容が伝えられ、今後の行動計画が承認された。報道発表の手順等も確認された。
 
 アメリカのベン大統領が、中朝首脳会談で合意した今後の支援の内容や動き、規模に基本的に賛同した事に金総書記は安堵した。WHOの調査団受け入れは依然として金総書記の意に染まなかったが、中朝の今後の行動に、事実上、ベン大統領がお墨付きを与えたことは朗報だった。
 
 これで、アメリカが妙なちょっかいを出してくることはない。ADE株対策にかこつけて、中国が北朝鮮を完全に支配下に置くことも無い。それは中米首脳会談の合意に反する。
 
 この禍を奇貨として、いずれ、アメリカと接近・和解を成し遂げる。これが金王朝の密かな狙いでもあるのだが、金総書記は、今日は苦虫を嚙潰したような顔を保ち続けていた。
 
 総書記はその為の次の一手も既に決め、詳細な吟味を加えていた。だが、中国政府にそれを気取られる訳にはいかないのだ。邪魔をされては敵わない。
 
 まずはADE株を封じ込める。そして、次に、自分達が、安心してもっと自由に動き回れる状況を作り出すのが最終的な目標だった。
 
 習主席と中国政府の厚意に対し、金総書記はこれ以上無い程の礼をこれ以上ない程丁重に述べ、列車に戻った。

***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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