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連載・20XX年のゴッチャ その2

20XX年一月オーフ・ザ・レコード
 
 時を現在に戻す。
 
その名を冠した小さなバーが東京のお洒落とされる小さな繁華街、麻布十番の外れにある。目立つ看板は無く、建物も普通の民家とさほど変わらず、重厚なドアの横に張り付けられた小さな真鍮板の英文字でそうと知れるだけである。
 
 玄関の灯りを受けて控え目に反射する表札にはやはり英語でメンバーズ・オンリーとも書かれていて、見知らぬ客がふらりと入る気になるような佇まいではない。実際、インターホンで客の名前と姿を確認しなければドアは開かない。
 
 店の名前を英語表記だけにしたのは、店主によれば気取ったわけではないらしい。カタカナ表記をして日本人が声を出して読み上げると原語の音とは似て非なるものになる。結果「違う名前の店になっちまう」からだという。
世間はまさにそれこそ気取っている以外の何物でもないと思う筈だが、店主はそんなことは意に介さない。
 
 意味は日本語のオフレコである。そこで小耳に挟んだ話は記事にしても良いが、誰が何処で喋ったのか明らかにしてはならないという意味だ。
アメリカの首都・ワシントンに行けば同じ名前の店がホワイト・ハウスの近くにある。麻布十番のこの店がそれを模したのは想像に難くない。
 
 店内はやや薄暗く、六人掛けの樫のカウンターと四人掛けのテーブル席が二つ、奥に小さな個室が一つある。個室のドアにはディープ・バックグラウンドとこれまた英語の筆記体で小さく書かれていた。
こちらは、そこで見聞きした話は一切口外無用、直接の引用は罷りならぬという意味である。そもそも満席になることなど滅多にない店なのだが、この個室に客が入る日は更に少ない。
 
 宮澤菜々子はこの店の常連客である。
 北京支局勤務から時を経てメトロポリタン放送の国際報道部長に就任した菜々子は、六代前の国際報道部長で、自分が北京特派員の頃の上司であった店主に頻繁に相談にやって来る。既に七十を超え少し耳の遠くなった店主は愚痴をこぼす相手としても申し分のない存在らしい。
 
「ルークさん、今日のお料理は何ですか」
 ルークは店主の渾名である。こちらは本当に気取ったわけではない。部下達の陰口がそのまま渾名になったのだ。スカイウォーカーを模したのではない。
「シェパーズ・パイとサラダがあるよ」
「うわ、奥様のシェパーズ・パイ、ほんと美味しいですよね。お願いします」
「はいよ」
 
 店に食べ物のメニューはない。日替わりで店主の奥方が作るメイン一品とサラダなどの副菜がもう一品あるだけだ。だが、料理研究家が生み出す味は天下一品、これを目当てに常連客は来ると言っても過言ではない。
店主は適宜温め、盛り付け、片付けるだけだ。かつての武闘派の姿を記憶する客にとってはその方が安心できるらしい。口にこそ出さないが、内心では店主が作った妙な物を食わされたら適わないと誰もが思っているのだ。
 
「やっぱり最高ですね。これどうやって作るんですか?」
 ドライ・シェリーを飲みながら待っていた料理を口にすると菜々子はいつもと同じように尋ねた。
「ラムの挽肉とみじん切りにした野菜やマッシュルームを炒めて味付けして、耐熱皿に入れ、マッシュド・ポテトで覆ってオーブンで焼く。それだけさ。」
「でも、どうしたらこんなに深くて素晴らしい味を出せるんですか」
「そこまでは分からないな。聞いても複雑過ぎて覚えられんのさ。」
 この返答もいつもと同じである。実際には奥方にきちんと訊いたかどうかも怪しい。
 
 しかし、菜々子が直接尋ねようにも、奥方が客前に出てくることはない。酒と旨いものをこよなく愛する料理研究家は夜には自ら飲み歩くか上階の自宅で静かに飲んでいる。毎日ではないが孫の世話もしているらしい。
それに出て来ても店の酒には決して手を付けさせないと店主は言う。潰れない飲み屋の鉄則である。
 
 一方、店主は現役引退後、酒を飲まない。今や完全な甘党である。小さなバーの経営には持って来いと言える御仁だった。
 
「今日は一人かい」
 店主は菜々子に尋ねた。
「もうすぐ桃姐さんが来るはずです」
「そうか、三人揃うのは随分久しぶりだな」
 そう言って店主は向かいのテーブル席の上にあるテレビ・モニターに目を移した。BBCニュースの国際放送がそのまま流れている。
 
 その頃、木原桃子は店に向かう車中で、直前の情報源との会話を静かに反芻していた。
 
「またクラプトン?それもわざわざヨーロッパへ?そして、何故今更?放っておいても構わない筈なのに…」
 
 情報源が所属する組織・韓国の国家情報院は略して国情と呼ばれるのだが、その国情が彼の動静を急にまた気にし始めた特別な理由が何なのか桃子には見当がつかない。
 彼は国や党の運営には全く関わっていない。幾ら考えても分からない。
「やはりルーク先輩と菜々子に相談しよう。あの二人なら漏洩の心配もないし」
 そう心に決めた。
 
 桃子は店主の三代後の国際取材部長で、やはりかつて店主の部下であった。定年退職後の今は半島問題専門家としてシンク・タンクに籍を置きながらメトロポリタン放送の客員解説委員として活躍している。
 
 桃子はオーフ・ザ・レコードの呼び鈴を鳴らした。

***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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