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20XX年のゴッチャ その25

 北京支局 
 
 菜々子の乗った全日空機が北京空港に着陸態勢に入った。すると、少し離れた軍用空港から離陸したと思しき中国の戦闘機と思える機影が、遠くに小さくであったが、窓越しに視界に入った。それが菜々子のある記憶を呼び起こした。
 
 特派員時代、菜々子は、搭乗した中国の民間航空機内から中国軍機の映像をこっそり撮影しようとしたことがあった。今は軍専用になっている北京西郊空港が当時はまだ軍民共用空港だったのだ。実際にはカメラの用意が間に合わなかったのだが、それをルークに報告したところ、激怒されたのだ。
 
「でも、あの空港に行けば誰でも見えるんですよ。何故、駄目なのですか?」
 菜々子がこう反論するとルークはこう言ったのだ。
「いいか、その誰でも見えるシーンとやらの映像をどこかで一度でも見たことがあるか?」
「いえ…ありません」
「その、誰でも見える、その気になれば撮れる映像が一度たりとも表に出たことが無いということがどういうことを意味するか考えてみろ。撮影は禁止されているということだろ。
そんな映像を流したら中国ではただでは済まないぞ。持っているのが見つかっただけで摘発されても文句は言えないんだぞ。だから、二度とそんなことを考えるな!」
 ルークの権幕は大変なものだったのだ。
 
 その後、日中関係の悪化に伴ってか、日本のビジネスマン一行が、多分、無邪気に撮影した写真の背後に中国軍関連施設が映り込み、スパイ容疑で拘束されたり、追放されたりするケースが続いた。そして、中国でこの手の事案が起きても詳細がオープンにされることは無かった。裁判が公開されることも無い。恐ろしいことになり得るのだ。菜々子は改めて気を引き締めた。
 
 支局に到着すると菜々子は取材態勢を岩岡に確認した。
 
 支局は北京駅周辺の二か所で既に張り込みを始めていた。北京の北朝鮮大使館周辺も定期的に見回っていた。特別列車の動向を探る作業も地元スタッフが継続していた。
 
 スケジュールも全く分からずに張り込みを何日も続けるのは幾ら慣れているとはいえ辛い。しかし、遅くとも数日以内に本番が始まるのだ。支局と応援のソウル支局・戸山班の士気は高かった。
 
「いよいよだね」
岩岡が言った。
「訪中も隔離も岩岡さん情報がばっちりでしたね。出稿は海外メディアに先んじることは出来なかったけれど、内容的には他社よりずっと良いと思っています。編集サイドからも文句は出ていません」
「そうか、それは良かった…」
岩岡が続ける。
「それにしても変異株がな…とんでもないことになりそうだな。それに重病説と正哲話の真偽と関連が全く見えてこないし…どうなっているんだろうな…」
「そうですね。そっちの話の方が肝になって来る可能性はまだあると思いますよ。取材を続けるしかないですね。王鶴さんの方は?」
「まだだね。どのみち、今はそれどころじゃないしさ。一段落してからだね」
「はい。ところで、薬は大丈夫ですね?」
 菜々子は支局の治療薬の在庫を訊ねた。
「それは大丈夫さ。ばっちり確保してあるよ」
 
 新型感染症の治療薬を常備するのは、インフルエンザ治療薬のタミフルとリレンザが出回り始めた頃からメトロポリタン放送国際取材部の伝統だった。当時、強毒性の鳥インフルエンザのヒト・ヒト感染が懸念されていたからだ。結局、鳥インフルのヒト・ヒト感染は起きていないが、タミフルとリレンザを支局に配布した直後に豚由来の新型インフルが発生し、支局スタッフの安心確保に大いに役立ったのだ。
 
 夕食は支局が取り寄せた中華の弁当だった。まだ暖かいのが有難かった。それをそそくさと済ませると、菜々子は翌日以降に備え、近くのホテルに入った。
 
 甲斐機関
 本文割愛し、先を急ぐ
 
 遺伝情報
 
 翌朝、中国人民解放軍軍事科学院の対生物兵器研究室に平壌に派遣した衛生中隊から新型コロナウイルス変異株の遺伝情報が送られてきた。
 
 生物兵器の使用は国際条約で禁止されているが、万が一、敵国が使用した場合の対処法の研究は各国で続いていた。二十世紀には旧ソビエトで生物兵器用の炭疽菌が漏洩した事故や2001年にワシントンで兵器級の炭疽菌がばら撒かれるというバイオ・テロ事件も起きており、各国とも目を瞑る訳にはいかないのだ。
 
 平壌から送られてきた変異株の遺伝子情報はSタンパクを作る部分に既存株とは明らかに異なる特徴があった。そして、現地での研究室レベルの実験では、人間の細胞への感染力に、そのままなら大きな変化は見られなかったが、各種抗体を中途半端に加えると感染力が高まるという現象が確認された。
 
 直ちに論文にして発表する訳にはいかない、ごく初期段階の試験に過ぎないとは言え、変異株は懸念されていたADE・抗体依存症感染増強を引き起こす可能性が高かった。ただ、同時に、治療薬が効くことも研究室レベルでは確認された。
 
 治療薬はワクチンのようにSタンパクの働きを妨げるのではなく、細胞内に入ったウイルスの増殖に必要な酵素の働きを阻害するからだ。科学院が事前に予想した通りの結果だった。
 
 これらの事実を北朝鮮政府も既に知っている筈だった。彼らも生物兵器の研究はずっと続けていて、この程度の解析能力ならある。
 
 担当者は直ちに上層部に報告をした。習近平主席の下にもこの情報はすぐに届く。
 
 解放軍の科学者達は出来れば変異株の実物を取り寄せ詳しい検査をしたかったのだが、独断でその作業を進める訳にはいかなかった。習主席の承認が必要なのだ。そして、仮に許可が下りるとしても少し先のことになる筈だった。
 
 習主席は拡大関係幹部会議を緊急招集し、金正恩総書記が乗る特別列車を北京に招き入れ、翌々日の金曜に首脳会談を開催することを決めた。関係部局には最終手筈を整えるよう指示が飛んだ。だが、発表は無かった。
 
 北京駅周辺のメトロポリタン放送取材チームは特別列車の到着を今日も首を長くして待っていた。運動不足が祟り、皆、身体が重かった。しかし、待つしかない。各社同様だった。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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