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個人の好みと社会正義

ジャーナリスト・佐々木俊尚さんがvoicyで連載している「毎朝の思考」を聞いている。この人の説教臭くない、それでいて含蓄のある物言いが好きだ。もちろん個人の好みなので、みなさんに強くお勧めする気持ちもない。

その日のテーマは「趣味と市場原理と社会正義を一緒くたにするのは危険だ」という話題。世の中には「今の時代、それはありえないですよ」などと、自分の物差しを勝手に他人にも押し付けようとする人が、結構いる。

例えば、コンビニの書籍売り場は昨今、成人雑誌を置かないのが大部分になったが、それがエスカレートした形で、「週刊ポスト」「週間SPA」などたまに目玉タイトルに性的な表現が掲載される程度の雑誌にすら、刃の目が向けられているという。佐々木さんはこれを指して「それは個人の好みであって、社会正義の立場で言うべきことではないのでは」という。昨今世知辛く、なかなか声に出しにくい意見だが、まったくその通りだと、記者などは思う。

米国のある学者は、世の中からある物が排除されるとき「法律」「道徳・規範」「市場」「アーキテクチャー」という4つのアプローチがあると言っている。「タバコ」を例にとれば、一番簡単なのは「法律」で縛ることで「禁煙法」を作ってしまえば良い。「道徳・規範」であれば、既にJTが実践しているような「タバコは健康を害します」というアナウンスをすること。「市場」で縛るのなら、1箱2万円位に値上げすると、吸う人はいなくなる。「アーキテクチャー」で縛るとすれば、例えばタバコの葉の中にタバコが嫌いになる成分を混ぜれば良い。

世の中から排除する手段が、この4つなのだとしたら「コンビニに雑誌を置くべきではない」というのは個人の好みの範疇で、いわゆるエロ本がコンビニから消えたのは単に売れなくなった、「市場」の先導で排除されただけなのではないか。

近年は「個人の好み」による「排除運動」が目立つようになった。例えばヴィーガン(これにもいろいろ流派があるらしいのだが)を例にとる。「動物性の成分を摂らずに野菜中心の食生活をする」というのは個人の趣味の問題だと、記者は思う。クリスマスの日にケンタッキー・フライド・チキンの店先でヴィ―ガンの人たちがデモを展開したことも聞いたが、それが社会正義なのかと言われれば首をひねらざるを得ない。記者も一度、精肉店で「この肉になった豚は、幸せな一生を送りましたか」と店の人に尋ねていたお客さんを見たことがあり、軽いショックを受けた。ヴィーガンを批判する気は毛頭ないが、これを個人の思想や趣向の範囲にとどめておくことはできないのだろうか。

記者は昨年、30年来手放すことができなかったタバコを、ついにやめた。もちろん他人に言われたからではなく「吸える場所が少ない(法)」「周りに吸う人がいなくなった(規範)」「値上げされた(市場)」などの理由からである。だからといって喫煙者に「やめたほうが良い」とは絶対に言わないと決めている。

(編集部 伊藤 直樹)

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