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いつか終わりが来る。

6歳の息子は小学校に入学した途端に休校になりました。もう少し休校が続きます。このコロナ騒動はいつまで続くのか、、、。  

休校中の期間、息子と一緒に営業に回ったり、職場で一緒に過ごしたり、まあ、家族での濃密な時間がたっぷりあって、ぼくは幸せを感じています。ええ、なかなか、こどもが近くにいる日常っていい。半強制的ではありますが、こんな日常なら続いてもいい。

そう、コロナにはいつか終わりが来る。

が、休校状態がこのまま続くのは悪くないかも、、、(笑)。 

小さな学生(小学生)と過ごしていると、いろいろ気づきがあるものです。ふと、考えてしまいます。彼らが大人になってこの世界で生きるために、どんな学びが必要なのだろうか?と。


ぼくは、いまのところ、世界や自分に対する新鮮な好奇心や驚き、感動から始まらないものは、すべて不必要なんじゃないかな。となんか確信めいたものがあります。

しかも、それにはかなりひろい個人差がある。そして、それはそも、そもそうあるべきなんじゃないかな、と。(個人差=格差という理解は、そもそも教育の懐の狭さの現れかも・・・。格差を是認してるわけじゃありません。)

いわゆる、コロナが来る前の日常が続いていれば、小学校にお勉強を「じゃあ、お任せしまーす!」みたいに安易に考えていました。いま、貴重な時間を過ごしている実感があります。

むしろ、この状態が「非日常」ではなく、「日常」になるとしたら・・・。やっぱり、ありかも、、こんな日常・・・。

もちろん、こどもには、教育が必要です。決して、無学であってはいけない。こどもたちの学びを妨げることは<こどもの権利を妨げる行為>です。教育を受ける権利は<こどもの権利>です。そして、教育をこどもたちに提供する義務は、社会や大人に課されている義務です。

義務教育っていうのは、<国/大人>が<こども>に教育の機会を提供する義務だと僕は捉えています。「こどもが教育を受けなければならない」というこどもの義務じゃない。だから、学校に行かないこどもが白目でみられたり、罰せられるようなことは、そもそも間違いだと考えてます。

あ、長くなりそうだから、つづきはいずれ。

こどもと一緒に日常を過ごして、日々生きるために必要なことを伝えていく。それって、親だからできる特別な役割だなと、責任と同時に、ぼくはワクワクするのでした。

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